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海外文学オススメの十冊 第三冊目:ゴリオ爺さん バルザック

 ヴィスコンティの映画で有名な『山猫』の作者ランペドゥーサはそのスタンダール論でスタンダールはバルザックが人間喜劇の膨大な著作で成し遂げようとした事をたった一冊で成し遂げてしまったと書いている。だがこれはスタンダリアンと呼ばれるこの作家の愛読者や評者が頻繁に使う常套句のようなもので別にランペドゥーサだけの評という訳ではない。しかしこの評価は正しいのだろうか。確かにスタンダールの小説はバルザックの無駄だらけの悪文で書かれた小説より遥かにスッキリしている。バルザックの混沌とした世界を読んだ後にスタンダールを読むとまるで古典劇のように登場人物の行動が読み取れる。だが、現実とはそのように何もかもがスッキリとした古典劇のようなものであろうか。スタンダールはその古典劇的な世界を成立させるために何かを捨てていないかと私は思うのである。

 バルザックの文章は確かに悪文でスタンダールの簡潔な文章と比べると確かに読みにくい。また一つ一つの文がひどく長い。小説の構成もスタンダールに比べて複雑というより乱雑である。冒頭から始まる描写や舞台の説明が長くいつまで経っても物語が展開しない。しかし実はそれこそがすべてバルザックの美点である。

 今回紹介する『ゴリオ爺さん』はバルザックの連作『人間喜劇』の中核作品であり、また人物再登場方式を初めて採用した小説である。ゆえに他の彼の作品よりもバルザックの小説がどのようなものであるかはっきりと表されている。この作品にも冒頭から延々と小説の舞台描写が続くが、注意深く読むと実はバルザックが小説の舞台を描写しているのではなくて、作り上げているのがわかるのである。彼の悪文にしか読めない文体はこの舞台を築き上げるに最も適したものなのだ。バルザックはその悪文で生活の匂いさえ漂わせるほどに舞台を築き上げてゆく。だが、我々はページの先にバルザックの現代ではただのメロドラマとしか思えないストーリーが待っているのを知っている。確かに冒頭の文章を読み飛ばしてドラマ部分から読めばその世界は全くのメロドラマだ。しかし彼の長すぎるとさえ思える冒頭を読み、そこに生々しいほどの現実を嗅ぎ取ると、それはメロドラマではなくて、強烈な人間ドラマとなるのである。

 バルザックはフローベール以降のリアリズムを予告した作家といわれている。しかしバルザックがフローベールやその後継のゾラなどの自然主義者たちと違うのは彼は現実を描写したのではなくてリアリズムと見紛うほどに生々しい世界を作り上げた事だ。それはフローベールやゾラと決定的に違う所であり、それがバルザックを巨大たらしめているものだ。確かにゾラはバルザックの後継者たらんとして彼と同じように人物再登場方式を採用して『ルーゴン=マッカール叢書』を書いた。だがゾラはバルザックのような創造者あくまで描写の作家であったので彼の作り上げた世界はバルザックの巨大な人間喜劇の世界に比べたら平板でスケールの小さいものだ。。いや、それはゾラだけではないだろう。ある意味バルザックの後継者とも呼べるプルーストも、バルザックの人間喜劇のむこうをはってヨクナパトーファ・サーガを書いたフォークナーもまたバルザックの巨大さには到底達していない。

 写実主義の第一人者であるフローベールは芸術的な見地からバルザックに対して大変批判的であった。バルザックの悪文を許し難きものとして徹底的に痛罵した。ナボコフもまた同様に彼を貶した。他にもバルザックに対する批判は数多い。しかしそれでもなおバルザックの小説は今もなお読まれているし、我々読者は彼の人間喜劇の世界にどっぷり浸かっているのだ。

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