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マドレーヌ男

 昔ある男とレストランでランチをとった事がある。その男は同僚でプルーストの『失われた時を求めて』を愛読していた。彼はランチの間中プルーストの小説の中で主人公がマドレーヌを食べて過去を呼び覚ましたというエピソードを語り、僕にもそんな事があったらいいのにと語った。その後に彼はため息をついてこう言った。

「僕にもそういう過去を呼び覚ますものが有ればいいんだよ。マドレーヌじゃなくてもいい。何か過去に僕が食べたものでさ。いや、別に過去じゃなくてもいいんだ。今からその記憶を作ればいいんだ。君、好きな食べ物はある?君の好き食べ物を僕も好きになって、それで将来僕らが一緒になった時、二人で一緒にその好きな物を食べて思い出したいんだよ。二人で過ごした時間を」

 あからさまな告白だった。私は動揺して二の句がつげなかった。彼の真摯な眼差しが私を打った。だけど私は……。

「くさやが好きかな。私あの匂いを思い出すと感傷的な気分になって泣き出したくなるの」

「くさやか……君はそんなものが好きなんだね」

 辛い事だった。せっかく仲良くしていて私に好意を持ってくれた同僚の告白を拒否するなんて悲しい事だと思った。だけどごめんなさい。私ハッキリ言ってあなた好みじゃないの。だから許して下さい。

 その翌日だったオフィスに入った私はものすごい激臭を浴びて倒れそうになった。みんなの「会社でくさやなんか焼くんじゃねえよ!」という叫び声が聞こえる。私は昨日同僚に言った言葉を思い出してまさかと思って煙のする方に駆けていったがそのまさかだった。

「あっ、君の大好きなくさや今炙ってるとこなんだよ!マドレーヌとはだいぶ違うけどこれもなかなか趣があるね!今のこの時を匂いと共に記憶に焼き付けて将来の甘美な思い出にするんだ!さあ来いよ。僕と一緒にくさや食べようぜ!」

 周りの人間が私に事情を聞いてきた。私は昨日のことは自分の名誉のために流石に口に出来なかったのでこう言って誤魔化した。

「この人昨日最近記憶力がなくなったとか私に相談してきたんです。それで私くさや食べたら記憶力回復するんじゃない?ってアドバイスしたんですけどまさかこんなことするなんて……」


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