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声のヒロイン

 伊庭咲詩織は今一番注目されている声優であった。彼女のまるでプルンとしたゼリーを思わせる声にヲタたちを激しく萌えさせた。火事まで起こしそうなこの萌えっぷりを警戒してか彼女が声を当てたキャラのイベントには必ず消防車が来ているほどだった。伊庭咲のこの人気は勿論その特徴的なボイスであったが、彼女の人気をより一層高めているのは伊庭咲が全くメディアに登場しない事によるものであった。顔は勿論対面でのインタビューさえ出ず、インタビューがあったとしてもそれは全てチャットでのインタビューだった。

 伊庭咲のヲタたちはデビュー十周年を迎えようとしているのに未だ顔すら見せない声優がどんな姿をしているのか激しく想像した。伊庭咲がメディアに全く出ず、その姿は時たま共演者や関係者たちから発せられるコメントから推測するしかなかったが、ヲタたちはそれらのコメントから各々自分の伊庭咲詩織像を逞しく妄想した。先日共演者の一人の南拓真は自分のラジオで伊庭咲についてこんた事を語っていた。

「詩織ちゃんね。彼女普通の子だよ。ヲタの人はいろいろ想像するけど、俺もこの間彼女と初めて共演したんだけどホント普通。声からじゃ全然想像できないよ」

 ヲタたちはこの南のコメントを聞いてますます萌えた。彼女は普通なんだ。普通だからこそあんな綺麗な声でキャラを演じられるんだとヲタたちはさらに妄想を膨らませた。ああ!本当の彼女はきっとどこにでもいるような女の子。だけどどこにもいない女の子。それが伊庭咲詩織なんだ。


「お疲れ様です」と頭を下げて伊庭咲詩織はまだ録音ブースで作業をしているスタッフに頭を下げてスタジオから出た。今日は伊庭咲一人の収録だったので他の声優はいなかった。だけど明日は他の声優と会わなくてはいけなかった。彼女は明日のことを考えて陰鬱になって来たので気分を紛らわせようとxxxでエゴサーチを始めた。伊庭咲は毎日エゴサーチを欠かさなかった。どんなに忙しい時でも時間を見つけて必ずしていた。彼女はネットに並んだ自分への賞賛も、自分への中傷も全部隅から隅々まで読んだ。ヲタの熱狂や、アンチの顔出し不可のブス、声だけの豚等の悪罵を読み伊庭咲詩織という声優を他人がどのように見ているかチェックしていたのだった。彼女にとってそれは自分がうまく仕事をこなせているかの確認作業であった。どんな賞賛や、キモい妄想が書かれていようが、どんなに酷い悪口が書かれていようが彼女はそれを全て受け入れた。この人たちが語っているのはあくまで声優の伊庭咲詩織なんだ。決して私じゃないんだ。そんなわけで今日も同じようにスマホで伊庭咲詩織の名を打ってエゴサーチを始めたのだが、いきなり明日共演する南拓真のコメントが出てきたので一気に現実に引き戻されてしまった。

「詩織ちゃんね。彼女普通の子だよ。ヲタの人はいろいろ想像するけど、俺もこの間彼女と初めて共演したんだけどホント普通。声からじゃ全然想像できないね」

 嫌なこと言う人だと伊庭咲は思った。南がラジオで言ったこの言葉は面と向かって本人に言われた事だった。彼女はスマホを閉じて顔を上げた。するとそこに窓があり、暗闇にぼんやりと自分の顔が浮かんだ。そのあるかないかの顔の凹凸を見て彼女はこう呟いた。「あの人ってホントイヤなこと言うな……」


 声優、伊庭咲詩織。本名武井公子は高校時代から子供の頃から自分の顔がコンプレックスだった。特に美人なわけでもなくて、ブスでもない。普通の顔で、普通過ぎて人に顔さえ覚えられなかった。メイクをしてもまるで似合わず白粉かハローウィンの仮装に見えてしまう有様だった。だが彼女はその地味すぎる顔の代わりに美しい声を持っていた。しかし彼女は自分の声が嫌いだった。彼女が誰かにその美しい声で誰かに呼びかけると決まって興味津々に振り返った。だけどその声の持ち主を見ると皆露骨にがっかりした態度でこういうのだった。

「なんだお前かよ」

 彼女が声優を目指そうと思ったのはそんな現実からの脱却だった。好きなアニメをずっと観ていて彼女はそのアニメのキャラに声を当てている声優に興味を持った。喋るキャラを見ていたらまるでそのキャラが実際に生きているような気がしてきた。私もアニメだったら目立てるような気がする。みんなよく言ってるじゃない。声だけだったら無茶苦茶かわいいのにって。

 高校を卒業した後彼女は親の反対を押し切って大学の進学を蹴り声優の専門学校に入学した。声こそが自分のアイデンティティだと考えた。この声があれば自分は自分でいられるように思った。そしてその望み通り彼女は学校に入った途端、業界から注目された卒業前にヒロイン役のオーディションに見事受かり伊庭咲詩織の名で声優デビューした。その後の活躍はもうみんなご存じのとおりだろう。


 自宅のあるマンションの前に数人の男が立っているのが見えた。彼女は男たちが伊庭咲詩織のファンだという事にすぐ気づいた。おそらく事務所かどっかから自分の住所を知ったのだろう。しかし彼女はそのまま通りすぎる。男たちは自分たちの前を通る地味な女に一瞥さえくれない。彼女はこういう光景をいつも目にしている。あなた達の前を通っているのはあの伊庭咲詩織なんだけど、気づかないのかな。彼女は玄関の横にある郵便受けの部屋に入りポストから郵便物を出しながらガラス越しに玄関の男たちをチラ見する。郵便物の中に入っている宛名のない気色悪いファンレターはこの男たちの誰かが描いたものか。いっそあの人たちにこのファンレター突き付けてやろうかしら。郵便物をしまって彼女は再び玄関に戻ってそのままオートロックを開けて中へと入って行った。

 真っ暗な部屋で彼女は眼下に広がる夜景を見ていた。下で私を待っているあの人たちはもう帰っただろうか。今日も会えなかったとガックリ肩でも落としているのだろうか。だけど私の正体を知ったらあの人たちはすぐさま私の元から消えるはず。なぜなら私は声のヒロインなんだから。いつか、いや明日。私が突然声を出せなくなったら私は何もかも失ってしまう。声を失ったらこの誰にもそこにいると気づかれないような地味なルックスで生きていかなくちゃいけないのだ。なぜなら私は声のヒロインなんだから。

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