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短編小説 『君は教室で浮いていた』


僕がその変化に気付いたのはある麗かな春の日だった。
幼馴染のあの子が、少しずつクラスの中で浮き始めた。

最初は誰も気付かないほど微かであったが、周囲の女子が彼女のことを純粋な瞳で陰で笑うようになり、クラスの中心的な男子も彼女を冷ややかな目で見るようになっていった。

時が経つと、クラスは彼女を嗤うことをやめた。
彼女は日増しに空気のようになっていき、彼女の存在に気付いているのも僕だけになってしまったように感じられた。



彼女は明らかに、浮いていた。


よく見ると上履きは地を捕らえておらず、頭は10cmは身長差があるはずの僕と同じくらいの高さだ。歩いているというよりもむしろすーっと飛ぶように移動している。にわかには信じられなかった。自分の目がどうかしてしまったのかと思った。

しかしそのことに気付いている人は、僕以外誰もいないようだった。彼女自身でさえそのことに気付いていないように思われた。一度友達にこのことを打ち明けようとしたが、彼女の名前を出した瞬間に嫌な顔をされてしまったので、僕は口をつぐんだ。


僕は彼女を見続けた。幼稚園の頃、僕がいじめられっ子に叩かれて泣いていたときに身を呈して守ってくれたのも彼女だった。その時彼女はたっぷり目に涙を浮かべながら、怖かったね、と声をかけてくれた。彼女も怖かったろうに。

そんな彼女が教室で孤立していく様は見るに耐えなかった。しかし僕には、見ていることしかできなかった。

ある日、帰り道(家が近所なので同じ方向なのだ)で、僕は彼女と一緒になった。
よう、と声をかけると、彼女は久々に声を出したと言わんばかりのか弱く掠れた声でありがとう、と短く言った。

おう、と僕は返したが、何に対して感謝されているのか分からなかったし、彼女が本当に感謝しているようにも、あまり見えなかった。

その後も彼女は浮いていき、彼女の頭の高さは遂に180cmを超えたと思われた。
着席していても、膝が机の裏側にひっかかってようやく着席?できているものの、お尻は完全に椅子から離れていた。
ふわっと広がるスカートが、その事実を僕に突き付けた。

その翌週のことだった。夏が近づき、蝉が鳴き始める季節。僕は放課後に彼女の姿が見当たらないことに気がついた。
いつもだったらクラスメートが下校してからひっそりと席を立つ彼女の姿が、今日はどこにも見つけられない。

どこに行ったのだろう、と辺りを見渡し、そして見上げてみた。だが見当たらない。

学校中を歩き回り、ようやく屋上で彼女の姿を見つけた。
彼女は上履きを脱ぎ、フェンスを乗り越えて建物の縁の付近でフェンスにしがみついていた。

彼女の力ない目と僕の視線が交差すると、ばちっと何かが弾けるような音が頭の中で鳴り響いた。

聞こえていないはずのその音に驚いたかのように目を見開いた彼女は、そのままフェンスから手を離した。


同時に、僕は走り出した。
彼女はゆっくりと宙を浮いていく。いまや僕のことなど見ていない。
悲しそうでも、またもちろん、楽しそうでもなかった。

彼女の制服のスカートがいつかの時のようにふわっとふくらみながら、赤銅色の夕陽を受け止めている。
さながら彼女は、燃えているようだった。

僕はフェンスを乗り越え、彼女に飛びついた。
彼女のお腹辺りを両の腕で抱くと、彼女と僕は二人で完全に宙に浮く形となった。

彼女の名前を呼ぶ僕を、彼女は全く意に介していなかった。
というよりも、気づいてさえいないようだった。こんなに強く抱きしめているのに、息苦しさすらも感じていないようだった。

僕が抱きつけば重みで落下するだろうと思ったが、それは甘かった。
彼女はむしろ高度を上げ始めた。眼下には部活をしている野球部員の姿が豆粒大に見える。
僕たちは高度を上げていき、遂に周囲には同じ高さの建物は見えなくなっていった。
普段展望台から見るような絶景が広がる中、僕は彼女にしがみつくことに必死だった。

気づけば、僕達は雲の上まで昇っていた。
遠くの方に富士山だけが見える。
日没の時間が近づき、空は紫混じりの朱色をしていた。
空といっても僕たちにとってはもはや見上げるものではなく、自分の目の高さに広がるものだった。
星がちらちらと見え始め、何より凍えてしまいそうなほど寒い。

最初こそ恐怖で彼女にしがみついていたが、彼女に触れていることで自分自身にも浮く力が働くようで、僕のような帰宅部の軟弱な腕力でも彼女にしがみついていることができた。

不思議ともう、怖くはなかった。
音もない世界でただ二人だけだった。
怖がる必要があるものは見当たらなかった。
いつの間にかとっぷりと陽は暮れており、あたりは蒼色の光に満ちていた。

僕は口を開いた。

「ごめん、俺、ずっとお前がクラスで浮いていくの、ただ見てるだけだった。
見てればいいと思ってた。でも違ったんだ。違ったんだよな。」

彼女の茶色混じりの瞳が、空の濃紺と溶け合っている。

「怖かったな。」

そう言って僕は、彼女の頰に右手を当てた。
悲しいわけでもないのに、僕は何故だか泣いていた。


彼女は、今眠りから醒めたとでもいうようにはっと瞬きをすると、自分をひっしと抱く僕を見下ろした。周りを見渡し自分達が宙に浮いていることに気づくと一瞬息を飲んだが、僕の右手にそっと自分の左手を重ねると一言、「うん、怖かった」と漏らした。





彼女と僕は地上を目指して、ゆっくりと高度を下げ始めた。
夜ご飯までには地上に戻れるといいね、と二人で笑い合った。








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