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インフルと、エネルギーの総和について

年始の初売りのその次、もしくはそれと同じくらいに忙しい百貨店の十二月。さまざまな世間の流行感冒に加えて激務が重なり欠勤するスタッフが出るなか、わたしも流行に乗ってインフルエンザに罹ってしまった。「す、すみません…今朝起きたら熱が出て…」朦朧としつつ店に連絡。はあ、申し訳ない。申し訳ないけど動けない。いや、ほんとに冗談でなく動けない。インフルってこんなにつらかったっけ? 昨日まであった食欲、見る影もなく。昨日まであったんだ、健全な食欲。いただきものの高級チョコレートがテーブルに鎮座している、のに、それにすら食指が動かない。これは重症。チョコレートが食べられないだなんて。

這うようにしてクリニックへ行き、診察を終え帰宅。自宅の目と鼻の先に内科クリニックがあるのは、不幸中の幸いのようなもの。ありがたや。

帰宅して、とりあえず水分だけ摂ってベッドへもぐりこむ。ささ、寒い。お外は確かに寒いけれど、これは悪寒ですね…さっきの体温、38.7℃だったけど、まだ上がる気なのかしら…ぞくぞくぶるぶるしながら頭まですっぽり毛布にくるまる。ぞくぞくぶるぶる。体内のセットポイントはまだ上昇しているよう。うう、つらいよう、と声にならない呻きをあげながら胎児のようにまるまっていたら、いつの間にか眠っていた。

その日は浅い眠りを続けて、日が暮れた。
虫の知らせ? 先見の明? いやただの偶然だけど、発熱する前日、わたしは仕事帰りにどっさり食料品の買い物をしていた。そう、健全な食欲があったんだ。でも、これこそ虫の知らせ? 先見の明? 日頃あまり買うことのない、プリンやら野菜ジュースやら、そんなものも買っていた。助かった…昨日のわたしありがとう。よくやった。グッジョブ。ナイスプレー。夜になってやっと電気を点けて、冷蔵庫を開けて自分をほめまくりながら(熱に浮かされている)パックの野菜ジュースをとぽとぽとぽ、とコップに一杯。うう、酸味が喉にしみてとても一気にのめない。暑いのか寒いのか感覚が鈍っていたけれど、コップのつめたさは心地よかった。こどもみたいに両手でコップを持ち、こくこくと喉を鳴らしながら少しずつのんだ。無事に胃粘膜が保護できたところで、最後に処方薬を流し込んできょうのタスクは終了。お風呂も入らず顔も洗わず(でも歯磨きだけはして)ふたたびベッドへ。外の世界のみなさん、おやすみなさい。ぱち。電気を消し、毛布のなかで、震える体と自分のものでないみたいな意識とを一緒にしようとする。すう。やがて誰かの意識に吸い込まれるかのように眠る。

翌日も同じように過ぎていった。薬と、なけなしの自己治癒力が功を奏したのか、少しずつではあるが起き上がれる時間も増えた。とはいえ、まだ本を読むとか動画を観るとか、何かをする気にはなれない。目を閉じてまるまって過ごす。頭痛と熱でぼんやり。

二日間ほぼ眠って過ごしたからか、三日目の朝は食欲が戻ってきた。おかゆを作る。たまごがうまく割れなかったり、おかゆの鍋を焦がしそうになったり(おかゆを…焦がす…だと…?)意識ぼんやりゆえのトラブルに見舞われながらも、ひさしぶりに食事をとった。わたしの食欲、おかえりなさい。待ってたよ、会いたかった。作り置きしていた白菜の煮物とおかゆ。箸じゃなくてスプーンで食べていたらこどもみたいな気持ちになる。スプーンで食べると安心する。

食事と洗い物をして体力が尽き果て、ベッドへ。この日は公休日だったので、職場に休みの連絡を入れる必要がなく気持ちが楽だった。
本を読む気力が出てきて、毛布のなかでかまくらごっこをするようにして読書。読書できるくらいの、最低限の頭の回転が戻ってきたかと思っていたら、同時に、容易な刺激に感情が揺さぶられる。感情の易疲労感、とでも呼ぼうか。感受性のセンサーみたいなものがすぐに振り切れて、読書が進まない。内容が入ってくる前に感情の波が押し寄せてくる。高熱という、いつもと違うストレスが扁桃体の働きを優位にしているのかしら…海馬と前頭前野がお仕事してくれてないわ…などと気持ちをそらすように知性化してみる。
だめだ。読書もできない。できないわけじゃないんだ。でもいまはできない。

次第にうつうつとした灰色の雲に覆われてくる。その日、たしかおもてはとてもよく晴れていて、それもさらにわたしを憂鬱な気持ちにさせたのだった。うつのときの晴天は苦手。太陽がまぶしくて目の奥が痛い。

しんどいなあ。仕方ないよ、インフルエンザだもん。でしょ? わかってるでしょ? そうだけど。そうなんだけど。ひとりぼっち、仕事にも行けなくて、本を読んでいたら次々とつらい気持ちが増幅されて、もらった高級チョコレートも食べたいと思えなくて。しんどいなあ。ただの体調不良とうつの波が一緒にわたしのなかにいた。

こういうふうに気持ちが落ちるのはめずらしい。
わたしには、六年前くらいに出した持論がある。それは「こころのエネルギーと体のエネルギーの総和はいつも変わらない」というもの。何らかの病気などでこころが消耗すれば、消耗した分だけ体はがんばってエネルギーを作り出し、逆に体がしんどいときには、こころはそれだけエネルギッシュになる。つまり、体調が悪くても一緒になって気持ちが沈むということはなく、片方を埋め合わせるようにもう片方は健康を保持するのではないか、という考えなのだった。
その考えに至った六年前までの数年間は、免疫系の持病がいまより言うことを聞かなくて、年に数回の入院を繰り返していた。そのとき、体はしんどかったけれど、不思議とこころが折れることはなくて、入院しても起きていられる体調であればせっせと本を読み、医者や看護師を困らせないようにと治療に励んだ。「このまま社会復帰できなかったらどうしよう」と不安がよぎることももちろんあったけれど、不安を日記に連ねてほんのちょっと泣いたら気持ちを切り替えることができた。むしろ体が動くようになって退院すると、不安は大きくなってうつその他メンタルの不具合が出やすくなった。そういうサイクルを何度も経験していくうち、「こころと体のエネルギー総和は変わらない」という結論に至ったのだった。
(※言わんとしていることはずれているかもしれないけれど、河合隼雄が似たようなことを何かに書いている。タイトル等は失念…)

そういうわけで、こころと体が一緒になって降下するのは、わたしにとってめずらしいように思えた。
でも、「健康な精神は健康な肉体に宿る」という言葉があるように、ふたつが正比例のような関係にあるのも決して違和感のあることではない、とも思う。むしろきっとそれは自然なことなのだ。だって、わたしの場合に限ってかもしれないけれど、体が動くようになるとうつ傾向が増すなんて、よく考えれば不自然だ。体の回復を素直に喜べないこころ。「また悪くなるかもしれない」と不安を先取りするこころ。「きっとこれはぬか喜びになるから、喜んだりしない」というある種の自己防衛として働いていた、とも考えられる。
防衛機制は悪いことでないけれども、長じて、行動のテンプレのようになれば歪みも出てくるかもしれない。

そう考えれば、今回こうやって体調とともにメンタルも降下していったのは、自然さを取り戻してきただけということかもしれない。中途半端でちょっと雑なまとめだけれど。病み上がりが必死に考えたんだ。そしてこれもこころの筋トレのひとつ。

ぜんぜんまとまりがないけど、まるまって考えたことをせっかくだから文章にした。感情をそのままにしないで、言葉にする作業をすると、前頭前野が活性化されるんだって。

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