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イメージの中に

テレビを観ない生活をして久しい。テレビを観ない、であり、テレビを持たない生活を。テレビ番組はわたしにとって刺激が大きい場合もあるし、不便はない。
先日、知り合い宅に行って久しぶりにテレビを観た。日常に溶けこむようにテレビが点いていた。そうか、テレビってこういうものだったっけ。実家ではテレビを観ていたはずだった。観てはなくても視界に映っていた。

そこで流れていたテレビ番組は、NHkのドラマ「作りたい女と食べたい女」。初見だった。ソファでお茶をのみながら、観るともなしにそれを眺めていた。テレビ観るの久しぶり。日常感のあふれるシーンのはずなのに、わたしにはいささか非日常だった。

初見のそのドラマを結構真剣に観た。内容や設定はよくわからないものの、女性二人が一緒に住んで、片方が食事を作り、片方がそれを食べている(もう片方、つまり作り手と一緒に)。同居している理由はよくわからない。(そしてこれを書くために調べたり、もしてない。なんとなく、ごめんなさい)

女性二人が一緒に住み、食卓を囲んでいるさまは、わたしがかつて友人と同居していたことを思い出させた。あ、こんなの観て、思い出して、さてはわたし感傷的になってるな。注意。浸りすぎるな。わかってる。でも、まあいい思い出だし。いまとなってはいい思い出になった、と思う。蓋の閉じられた思い出の箱に、それらの日々は収まろうとしている。ときどき勝手に蓋が開くのはどうしてだろう。

なんとなく泣きそうになったので困ってしまう。ぐわっと感情のうねりが強くなって押し寄せる。お茶をのむ。「わ~おいしそう」とか言ってみる。言語化できない感情はうねり続ける。胸ぐらをつかまれるような強さと、墓地に降り続ける雨みたいな寂しさが同時に押し寄せる。

月一回のカウンセリングに行った。カウンセリング後、すごくしんどくなる。我ながらよく通うなと感心するくらい、数日、渦の中にいるみたいにしんどくなる。ふつうに考えて、お金を払ってしんどくなりに行くのって不自然なんだけど、これはひどい好転反応なんだとどこか確信している自分がいるから、行く。行き続ける。でも、あまりにしんどくなると好転反応だなんて思えなくなるのだ。「このしんどさ、信じていいんですかね? ただわたしの具合が悪いだけなんでしょうか」答えがほしくてカウンセラーに問うと、でも「あえて答えない。だってわかってるでしょ?」と言われた。ほんのちょっとだけ笑って。信じていいのか。でも答えがほしいときもある。誰かに「そうだよ」と言ってもらいたいときが。

というわけであんまり頭が回らない。行きと帰りの電車内と帰りに寄ったカフェで、これまた久しぶりにエリザベス・キューブラー・ロスの「『死ぬ瞬間』と死後の生」を読んだ。スピリチュアル系みたいに見えるタイトルだけど、全然違う。イメージは必要かもしれないけど。この本だけじゃなく、彼女の本にはだいぶ救われた気がする。わたしがきちんと動けるようになるための栄養になってくれた。

こうやってどうにか書いてみるけど。わあわあ泣いて、五歳とか六歳とか、あるいは十二歳とか十三歳とかのわたしを呼び出して一緒に疲れ果てるまで泣き続けてみたいとも思う。こういう病的なわたしもまだ健在している。病的なわたしが健在。疲れ果てるまで一緒に泣いたあと、大人のわたしが毛布を掛けてやり、隣で手をつないで眠るのだ。すうすうと寝息が安定したのを確認したら、わたしもそのままぐっすり眠る。朝は少しだけ早く起きて、おにぎりと目玉焼き、あるいはホットケーキとココアを用意して、子どものわたしが起きてきたら「おはよう」と声をかける。そして一緒に朝食をとる。
きょうもいい天気だね。ごはん食べたらどっか行く? それともうちで猫と過ごす? どっちがいい? わたしは子どものわたしに尋ねる。いくら小さな声でも絶対に聞き逃さないからね、とこころに誓って尋ねる。


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