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ひとりって快適かもしれない

いま、わたしはひとりで暮らしている。
実家を出たのは高校を卒業してすぐだけど、よく考えるとひとり暮らし歴はあまり長くない。進学して半年は寮生活だったし、就職して二年経たないくらいで当時のつきあっていた彼と同居したし。彼と別れてからも、女の子の友人と一緒に住んでいた時期もあった。

家族を含め、他人といると疲れるくせに、わたしはひとりが苦手なのだと思っていた。寂しがり屋だという自覚はあった。でも、わたしにとって、寂しがり屋とひとりが苦手というのは違うと思う。最近気づいたことだ。

ひとりって快適だ。最近、つくづくそう思うようになった。ひとといるのは楽しいこともたくさんあるけれど、生活を共にするとなるとどうしても疲れてしまう気がする。素の自分でいられるというか、気を遣わないで一緒に生活ができる人間って、わたしにいるのだろうか。
わたしは協調性がないわけではないと思う。むしろ相手に合わせることは得意な方だと自負しているけれど、よく考えたらその過剰適応ぶりが裏目に出ているのかもしれない。ひとと生活をする、という点において。

同居していた彼とは四年くらい一緒に暮らしたけれど、もうあのような生活はわたしにはできないな、と思う。実家に関してもそうだ。がんばればできるのかもしれないが、がんばらないとできないし、したくはない。

帰宅して、部屋に明かりが点いていることが嬉しかった時期もあった。「おかえり」と出迎えてくれるひとがいることが。飲みかけたビールと食べかけのごはんがテーブルにあることが。お風呂の匂いがすることが。さあ眠ろうと布団に入ると、その布団が暖かいことが。

友人(れいこちゃん)と住んでいたときは、彼とは少し違う感覚だった。金銭面でお互い気を遣わないようなルールを決めたし、でもぎちぎちな他人行儀っぽさはなかったし。こんなふうに書くとすごくいい距離感だったみたいに聞こえるかもしれないが、やっぱり他人同士、家族でもなければパートナーという存在でもなく、友人という関係性ゆえに気を揉むことはたくさんあった。部屋はきちんと分けていたけれど、プライバシーも微妙だった。わたしが一方的に気にしていただけだったのかもしれない。彼女は、本当に、あっけらかんとしていたのかもしれない、とも思う。

ともかく、いまはひとりで暮らしていることがとても快適だと感じる。
帰宅して部屋が真っ暗でも、わたしは自分で明かりを点けることができるし、点けたい場所を選ぶことができる。「おかえり」の言葉がなくても大して寂しくないし、おかえりの後に続く相手のペースに飲み込まれることもない。そう、相手のペースではなく自分のペースを優先できることの快適さなんだ、と思った。ペース、選択肢、気分、心地よさ、それらをわたし優先で手に取ることができる。なんて快適なんだろう。

そういう快適さを、他人と一緒にいても適度に獲得できるようになることが、いちばんなのだろう。I'm OK, you're OK. でいることが。それができないわたしは、まだ相手のいない場所でI'm OK.  の練習をしているのかもしれない。「自分で選ぶってこういうことだよ」「快適であるっていうのはこういう感覚だよ」と。
「自分の人生のハンドルは自分が握っている」という文章を、先日noteで読んだ。自分で決められる、決めていい。背中を押されたみたいだった。

なんでこんなこと書いてみたくなったかというと、先日会話をしたひとたちとの言葉が残っていたから。
あるひと(わたしのこころの姉さん)と話していたとき、「ひとりって最高」と、ぽろっと出ちゃったのだ。あ、本音、と思った。姉さんは同意してくれて、わたしの感覚、いいんだ、と気持ちを固くしたのだった。
その後何日かして、ひよ子さんと話した。ひよ子さんには、別の話の流れで「結婚はしたい?」と訊かれた。「絶対したくないとは言わないけど、絶対にしたい、とも思わない」というようなことを答えたと思う。これも本音。本音と言いながら、ぼんやりしていて広いけど。「わたしはこうだ」と決めつけたくないことの表れなのかもしれない。わたし自身に対しても、他人に対しても。

ひとりは快適だけど、でも、だれかの飼い猫になるのはいいかな。暖かい部屋があって、ときどき一緒に寝てくれて、気が向いたときに遊んでくれたらいいから。食事は味噌汁と白ご飯でいいよ。

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