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4/25カウンセリング記録

午前中、カウンセリングを受けてきた。これを書き始めたいまは、その日の午後。頭がぼーっとしている。ぼーっとしているのにどこか考えることがやめられないので、書き出してみる。

今回は時間を有意義につかえるよう、カウンセラーと共有できる詳細なメモを用意した。このようなメモは、用意することもあればしないこともある。しないときも、自分にしかわからない程度のざっくりしたものは用意するようにしている。ただ、自分にしかわからないものの場合、カウンセラーに見せることはないので、いざカウンセリングが始まっても「これは省こう」「これはやはり話したくない」「こんなことを話したら…」などと守りの姿勢が強くなり、自分で話題の選択を狭める傾向にある。それが悪いことだとは思わないけれど、もったいないことだと感じることはある。

五、六個のトピックを載せたメモを読んでもらうと、「どの順番で話したい?」と訊かれた。わたしは戸惑う。こういうとき、どれから話してよいのか、何がわたしにとって重要なのかわからなくなる。わたしの感覚で決めてよいことなのに。わたしの感覚に耳をすませてよいことなのに。相手に話題を決めてもらうほうがずっと楽なのだ、ということに気づく。いや、楽なのではない、慣れているだけだ。わたしは選択する自由を与えられたとき、それを存分に楽しむ権利がある、ということに気づかされる。慣れていないことには時間がかかるけれど、このような安全と感じられる場で数をこなしていくことは大事な気がする。相手はわたしを尊重してくれている、ということを、素直に受け入れる練習。

話を進めながら、とにかくわたしは話すのが下手だ、といやになる。どうして、思っていること感じていることがうまく言語化できないのだろう。そのくせ、頭の中を整理するためにはこうやって文章にすることが一番だと考えている。話すことと書くことは次元が違うけれども。

思っていること感じていることを、殊更カウンセリングという場では「より正確に伝えたい」と意識している結果なのだろう。ただ、以前にも書いたように、わたしはローギア的思考は得意だがハイギア的思考は苦手だ。思ったことを「とりあえず」ぱっと言葉にして、会話を進めながら考えを整えて組み立てる、ということが。感情にいくつも言葉を当てはめて、これかも、いやこっちかなと脳内で試行錯誤し、文字通りうんうん唸りながらどうにかして口に出していく、という感じだ。(ちなみに、ハイギアの訓練のため「とにかく三十分以内に思っていることを書ききる」とnoteを利用してみたりしている)

カウンセラーの聡明で論理的な思考と言葉に、わたしは首肯することでしか反応ができないことさえある。とっさの言葉が出てこないのだ。「わかりました」とか「わたしもそう思います」などのお決まりの文句ならば浮かぶ。それらが浮かび、実際そのように返したとしても、その後が続かない。まったく会話が成り立たない。申し訳ない気持ちになる。

カウンセリングの日の朝、わたしはオンライン自助カフェを開けた。休日のその日、少しゆっくり起きてオンラインにつなげる。しばらくしてひとり入ってきてくれた。話す。というより、相手の話を聞く。とある共通の知り合いの話題になる。「あの人はすごく熱心だからね、活動的だよね」その人についてわたしより詳しい彼女が言う。熱心。活動的。起き抜けのぼんやりしている頭にそれらの言葉が響く。
「あ、わたしユウちゃんの話、聞いてない」彼女は配慮の言葉をかけてくれた。あー、いやいやわたしは、と口ごもっていると、「最近どう? 仕事は?」と質問までしてくれる。仕事は? と訊かれ、何をどう話せばよいのか迷ってしまう。順調です、がんばります、などと言ったのだろうか。いってらっしゃい、またね、とオンラインを閉じる。

カウンセリングでの話の流れで、ある研修や講座についての話題になった。ずっと受講したいと思っている講座があるが、わたしにとっていくつかの要因があり受けられないでいる。わたしのその話を聞いて、カウンセラーは代替案を提示してくれた。
カウンセリングが終わって、教えてくれた代替案について具体的に探すべく検索サイトを徘徊した。教えてくれたそれはすぐに出てきた。ついでに、惰性のようにそのサイトの周辺情報を見る。さまざまな人のさまざまな活動が載っていた。

それらの情報を見ながら、わたしはだんだんと自分の情けなさや無力感が強くなっていくのを感じた。世の中にはこんなに、他人や社会を動かそうと躍起になれている人がいるのか。そんなこと、もちろん以前から知っていることではある。目の前にいたカウンセラーだってそのひとりだ。

わたしは、自分で言うのも変だけれど、この数年「よりよく生きる」ために努力してきた。時間とエネルギーを費やして、乾いたスポンジが水を吸収していくみたいにどんどん情報を取り入れ、自分のものにしようとしてきた。「努力」と書いたけれど、人との出会いやサポート、運やタイミングに助けられてばかりだったとは思う。でも、自分で言うのも変だけれど、それはわたしが向上心みたいなものをどうにか捨てずに持ち続けたからだ、とも思う。

サイトに載っているさまざまな活動を見て、情けなさや無力感が強くなっていると、追い打ちをかけるように今朝のオンラインでの会話が思い出された。熱心。活動的。ふたつの言葉を回収して、わたしの情けなさや無力感はさらに強くなっていく。

どうして、わたしはこんなにがんばってもがんばっても、つらい毎日が続くのだろう。自分のことが整理できないのだろう。努力が実らないのだろう。

努力は実る。確実に。ただ、それは、努力をする前の自分と比べて、のことだ。何も知らなかったころのわたしに比べれば、わたしの努力はそれなりに結実していると思う。過去のわたしとは違う。
同じ努力をして、もっとわかりやすく結果が出せる人もいる。それは運命みたいなものかもしれない。その人と同じようにできなくても、それはわたしの努力が足りなかったわけではないかもしれない。ただ、手持ちのカードが違うだけだ。生まれ持ったカードに左右されることもある。だから、わたしの努力は否定しないようにする。

情けなさや無力感にさいなまれながら、でも、はたと気づいた。情けなさや無力感は、わたしがわたし自身を「誇りを持って生きていて(情けなくなくて)、万能で有力だ」と期待している証拠じゃないか、と。わたしはもっとできる子なのに、まだできていない・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・と期待値をばりばり上げてうぬぼれているだけじゃないか、と…。

「何者かになろうと思わなくていいんだよ」と、かつてかけてくれた言葉を思い出す。「世の中にはいろいろな人がいることに意味があるんだよ」という言葉も。その人が活動家だから友人になりたいわけではないし、有名な人が書いた記事だから好きなわけでもない。わたしがカウンセラーと話をしたいと思うのも、カウンセラーが著名人だからという理由ではないように。

カウンセリングはつらいけれどおもしろい。カウンセリングで話題にした内容以外のトピックで、こんなに自分を深堀りできるなんて。すべてはつながっている。でも、そのすべてを抱えて生きるのは大変だから。荷物の選定作業を手伝ってもらう。そんな感じ。大丈夫。大丈夫。

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