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【東海道】岡崎二十七曲りを歩く④ 両町~伝馬町(寄り道:祐傳寺、徳王稲荷、三河別院、円頓寺)


はじめに

前々回の記事で、『岡崎二十七曲り』の「旅の目印」”ろ”まで進んだ。
今回はその先へと足を進める。

”ろ”の目印までの記事は以下を参照いただけると幸いだ。

今回の旅の始点・終点は以下のとおり。

「旅の目印」”ろ” から伝馬町に在る和菓子屋「備前屋」まで辿る

東海道・岡崎宿の宿場町まで歩みを進める。

今回の旅は「旅の目印」”ろ”から始める

前回までの「旅の目印」に従って道なりに西に向かう。Googleマップでは近隣の道が『東海道』となっているが、ここは「旅の目印」を優先する。
江戸時代初期には「旅の目印」”ろ”付近以西は岡崎城下町だ。
これは次回の記事で触れたいと思う。

道なりに歩いていくと次の「旅の目印」”は”に辿り着く。

「旅の目印」”は”
名古屋方面に向かって左手が岡崎消防署本部・市役所となる
石碑もある
この曲りを右折すると80mで「現)伝馬通り」に出る

ここで少し寄り道 築山殿の首塚があった祐傳寺へ

この曲り(”は”)を東海道と逆方向、名古屋方面に向かって左折する。
すると直に岡崎消防署本部に面する。

この日はたまたま『レッドサラマンダー』が車庫の外に出ていた。

一度、消防署署員さんのご厚意でレッドサラマンダーの内部を見せていただいたことがある
市役所への用事のついでに見かけ、中を「見たい」と申し出てのことだ

岡崎消防署本部の真向かいに在るのが真宗高田派の『根石山 祐傳寺』

本堂
山門?元々は鐘撞堂か?
大東亜戦争の際、寺社の梵鐘の多くは貴重な金属(加工して武器等にした、と)として供出させられた歴史もある
私は技術/工業に関する仕事をしているため(建築ではない)、どうしても細部を見てしまう

中に入り参拝後、築山殿の首塚を拝見する。

元々、築山殿の首が葬られた場所だ
檀家さんのお墓もあるため、どうぞご配慮を

1600年代半ばに『八柱神社』へと改葬されているが、元々、築山殿の首は祐傳寺に葬られていた。
改葬と言いつつ、「築山殿の首」そのもの全てを改葬したのか、一部を改葬したのか、はたまた形式上のみ改葬というカタチを取ったのかは定かではない。
できれば祐傳寺、八柱神社双方に在る築山殿の首塚を参拝いただけると幸いだ。次回はこの辺りの経緯の「仮定」を記事を書きたいと思う。
これを書きたいがために東海道を歩いたわけだ。

旧)東海道に戻る

旧)東海道に戻るとしよう。
旅の目印「は」まで戻り、道なりに北上する。すると右手に古の常夜灯がある。

岡崎空襲も耐えた常夜灯だ

ガラスの反射でうまく写真を撮れないため、近くを通った際には実物を見ていただけると助かる。

ここを後にすると直に「旅の目印」”に”に接する。

「旅の目印」”に”
現)伝馬通り、ここから旧)東海道・岡崎宿の宿場町中心部にあたる
ここからしばらく伝馬通りに沿って歩く

現)伝馬通り、旧)東海道を西に向かって歩くと、「伝馬通り5丁目」の交差点に行き当たる。

名古屋方面に向かって左手が岡崎市役所西・東庁舎

この交差点を名古屋方面に向かって右に行き、東海道から少し寄り道する。

家康公が弓の練習をしたと伝えられる『徳王神社』

「伝馬通り5丁目」の信号を北に向かい50m弱歩くと『徳王神社』がある。

藤が綺麗な神社だ
本間三郎重光殿は前回記事で訪れた「築山稲荷・総持尼寺」の寺伝にも書かれていた御方ではないだろうか
お狐様
阿吽@狛犬様
狛犬様@阿吽

「徳王神社は家康公が弓の練習に来た神社だ」とはるか昔に聞いた覚えがある。

徳王神社をもう少し北に行くと真宗大谷派「三河別院」があるが、今回の歴史旅とは些か趣旨が違ってくる。そのため、山門の写真とwikipediaを埋め込んでおく。また機会があれば訪れたいと思う。

ちなみに私たちの一族の法名は「釋(釈)」が付く。真宗大谷派の門徒と分かる。そのことから、三河一向一揆の際、先祖は「一向宗」側だったということも読み解ける。

三河別院の正門
岡崎(三河地区か?)の真宗大谷派の総本山的な立ち位置といったところかーー

さて、旧)東海道に戻ることにする。
「伝馬通り5丁目」の交差点を更に東海道(伝馬通り)に沿って300m強ほど西に向かい歩くと、寺社の入口が在る。

江戸時代以降、岡崎藩主と所縁ある『日蓮宗 円頓寺』

旧)東海道、現)伝馬通りに目印がある。

旧)東海道・現)伝馬通りから見た円頓寺

円頓寺は正保2年(西暦1645年)に、岡崎城主水野忠善公の母君供養の為に建立された。

縁起 円頓寺HPより

上記が建立年度のようだ。
円頓寺の御由緒などについては寺社の公式HPを閲覧いただけると幸いだ。

近くで見ると普段見慣れている寺社とは少し異なるーー京都平安神宮などに似た雰囲気を感じる。※初めて寄せていただいたため抱いた感想

観音様もいらっしゃる
お賽銭をお納めし、参拝してから写真を撮っている
秋の青い空も相まって非常に鮮やかだ
灯篭は文化年間建立の模様
沿革@岡崎市
後述するが、家康公と近い方のみ立て札を建てる傾向がある岡崎市といった感じだ
※少なくとも前回記事の総持尼寺・築山稲荷、若宮八幡宮、八柱神社、裕傳寺はない

ちなみに今回の東海道を辿る旅で初めて参拝した。こういった自分が知らないだけで長く続いている神社仏閣が岡崎市には散見される。

今回の旅の終点へ

また東海道に戻り、西に向かって歩みを進める。
すると「伝馬」の信号に辿り着く。当記事の旅の終点だ。

モダン通り(南北)と現)伝馬通り(旧東海道)が交わる交差点、「伝馬」
江戸時代から続いている和菓子屋「備前屋」がある

ちなみに備前屋のモダン通り沿いには旧東海道を記したものがある。

岡崎宿の屋号や位置が記されている
文政9年(1862)の岡崎宿とのこと
岡崎市中心部(ここでは岡崎城周辺の意)ほど、大東亜戦争の被害が甚大であった

まとめ

旧東海道から少し離れた距離に歴史のある史跡や神社仏閣が点在する。
一説で岡崎市は京都市よりも神社仏閣の総数が多いと聞く。
東海道を道なりにのみ歩くのも良いが少し街道から外れ、気になる場所を訪れてみることも良いのかもしれない。

人生と同じでほんの少し寄り道をすることに依り、それまでは気付かなかった新たな発見があるのかもしれない。

追記

岡崎市教育委員会や観光課/観光協会が設置するご由緒などの立て札を建てる否かの選定が些か不明。個人的に理解しかねる事が多々ある。これはしばらく後になるが、市史などに関連して触れることとする。

ここに書くことではないが、他の三河武士の子孫の方々も先祖の成したことを世に出したいという意見もあると耳に挟んだ。しかし、大東亜戦争の折に書物が焼け落ち模写しか現存しないという家が多いとのこと。
「古文書以外は扱わない」。そう市役所から突っぱねられていると聞く。私もそうだった。
今後このように戦国時代の部将の子孫が多く名乗り出てくることはないと思う。こういった好機を逃すことは如何かと個人的に思う次第だ。


最終改定: R5年12月8日(2回目)
1回目:当注意事項の追加
2回目:祐傳寺様の「祐」が「裕」となっていました。大変失礼いたしました
※後に読み返した際に変更があれば、改定日を修正いたします

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