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星座と物語~ヴァルター・ベンヤミン:キャリアと学びと哲学と

2010年に社会保険労務士試験に合格して今は都内のIT企業で人事の仕事をしています。社会人の学習やキャリアに関心があって、オフの時間には自分でワークショップや学びの場を主催することを続けています。その関心の原点は、学生時代から哲学書が好きでよく読んでいたことです。キャリア開発や人材育成の研究には、哲学からきた言葉や考え方が用いられていることが少なくなく、哲学の知見の活かし方として非常に興味深いのです。キャリアに関心のある社労士という私の視点から、哲学のことをお話しできたらユニークなのではと思って、この記事を書いています。

自己紹介


星座の光

ヴァルター・ベンヤミンという人についてお話したいと思います。ベンヤミンは1892年にドイツに生まれました。生家は非常に裕福なユダヤ人の商家で、暮らしは何ひとつ不自由なく、幼いころから音楽や芸術についての高度な教育を受け、文化的な素養にもたいへん恵まれていた人でした。しかし、ユダヤ人ということもあり、ナチスの台頭によって祖国を追われることになります。アメリカへと逃げようとする道中で追い詰められ、1940年に自ら服毒してその生涯を終えました。

ベンヤミンの残した著作には、エッセイや批評が数多く、純粋な哲学者というよりは文芸批評家といった方がベンヤミンのイメージにしっくりきます。そのエッセイのテーマは、文芸や文学はもちろん、消費社会や流行など消費社会論のはしろちえるもの、そして、写真や映画といった当時最新の芸術、それから、革命とユートピアについてと多岐にわたります。

また、ベンヤミンはオタク気質というか収集癖のある人で、古本屋を巡って古書を買い集めたり、子ども向けの玩具や絵本を収集したりすることが好きだったそうです。暮らしの中で目に留まった文章を集めることは彼のライフワークで、小説の一説から、街角に張られたポスター、チラシやビラに書かれた言葉まで、とにかく印象に残った言葉はなんでもスクラップにして集めていました。その情熱は「パサージュ論」という膨大な引用で構成された奇妙な作品で読むことができます。

収集や引用への非常に強い関心は思想家としてのベンヤミンにも色濃く影響しており、ベンヤミンを唯一無二の思想家にしています。「認識批判的序説」という少々難しいタイトルのテキストで、ベンヤミンは理念とは「星座」(コンステラツィオーン)であると論じています。

理念とはプラトンのイデア論以来、西洋哲学の中心に置かれてきた言葉です。「正しさ」「善さ」「美しさ」といった抽象的な概念で論じられてきた理念は、プラトンがそうしたように、太陽のイメージで語られてきたものでした。プラトンによれば、理念は事物の真実の姿です。私たちが五感で経験できる事物は多種多様な現れをするものですが、理念は永遠にして普遍の姿です。万人にとって同一のものでなければなりませんから、唯一のものでなければなりません。それが、万人に等しく光を注ぐ太陽に重なるのです。

それに対して、ベンヤミンは、理念とは星座であると論じます。星もまた光ですが、太陽のように強くもなければ、唯一でもありません。星座は暗い夜空に瞬く複数の光からなるものです。明るい星もあれば、暗い星もあり、しかし、どれが中心というわけでもなく、星々が結びついてひとつの形を描くものが星座です。ベンヤミンは、ここで複数であることを通じて、星座が普遍的なものを示さないことを意味しています。太陽の理念が抽象的で普遍的な概念であるのに対して、星座の理念は具体的で個別的な事物によって構成されるものです。太陽の理念が直接的で無媒介的なものであるのに対して、星座の理念には媒介をしてくれる個物が必要不可欠です。

そして、星座は星の結び方を変えさえすれば別の形に転じもします。いまはたまたま「こぐま」や「おおいぬ」や「わし」の形で結び付けられている星座も、その結び方を断ち切って、新たに結び変えれば、まったく新しい星座を描くでしょう。理念の姿は永遠にして不変ではなく、時間のなかで、変容していくものなのです。

したがって、「美しさ」という理念は、伝統的な概念として理解すれば、きわめて抽象的なものであり、具体的な姿は何ひとつとしてもたないものですが、ベンヤミンは、まず過去に「美しい」とされてきた様々な個別具体的な事物を求めます。そして、個物が寄せ集められ結びあわされて浮かんできた形象をこそ理念と認めるのです。

要するに、「正しさ」も「善さ」も「美しさ」も、あたかも永遠に輝き続ける太陽のような、歴史を超脱した普遍な輝きではなく、「正しいとされた人」や「善いとされた行動」や「美しいとされたもの」といった、歴史のなかで浮かんでは消えていく、個別具体的な事象の組み合わせとして生じるものなのです。そして、場所や時代が違えば、その組み合わせも変化していくようなもの、移り変わってゆくもの、そのようなものとして理念は生じるのだと、ベンヤミンは考えました。


進歩という廃墟

星座は夜空に浮かび上がる星々が形作るものです。しかし、目に見える明るい星ばかりが星ではありません。夜空の暗く星の見えない領域もまた空虚な場所ではなく、そこにも、地上まで光を届かせることができなかっただけで、目には見えない無数の星々が潜んでいます。星座というモチーフは、星として認められることのなかった幾多の存在が隠されていることを暗に示しています。

目に見える星の輝きは目に見えない星の暗さがあればこそです。ベンヤミンのまなざしは、明るく輝く一等星よりは、むしろ、見えざる星、隠れた星、幽かな星、弱い星へ、より強く注がれています。見えないものへの意識は、彼が歴史について語るとき、より一層、前景に現れ出てきます。続いては、彼の歴史哲学について触れていきましょう。

記憶を愛してきた人らしく、ベンヤミンは歴史の哲学に強い関心をもっていました。ベンヤミンには「歴史の概念について」(かつては「歴史哲学テーゼ」と呼ばれた)という作品があります。ベンヤミン独自の歴史哲学を記した抒情的で美しい作品です。

この「歴史の概念について」において、ベンヤミンは歴史の常識的な概念を根底から覆そうとします。歴史の常識とは、歴史は「物語」であるということです。ベンヤミンは、この歴史の「物語」を強く警戒しています。

歴史の物語は始まりと終わりを直線的に結ぶ物語です。過去に始まり、現在で終わる時間軸をもっています。そして、歴史が書かれる時間は常に現在です。死者には新たに物語を書き直すことはできません。現在に生きる人間が過去の事象を並べかえつなぎあわせて歴史の物語を書くものです。だから、歴史の物語は、いま現在に生きている人間のために書かれる物語ということになります。

現在に生きていられる人たちは歴史に生き残った存在です。過去には無数の敗れた者、滅びた者、死んでいった者たちが存在します。現在に生きている人はすべて勝利者なのです。したがって、現在に書かれる歴史もまた勝利者の歴史ということになります。現在に生きる者たちは自分たちにとって都合のよい物語を好きなように書くことができます。勝利者の歴史に敗者の居場所はありません。

すべての物語には物語られた存在と、物語られなかった存在の二つがあります。目に見える星と目に見えない星の二つがあるのと同じように。現在を生きる者たちが、自身の歴史を、成長や進歩の物語として高く褒め称えるとき、ベンヤミンは、そこにかならず負けていった過去たちの残骸を見ます。「歴史の概念について」において、ベンヤミンは、自身の姿を「歴史の天使」という姿を借りて書いています。

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフはやすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし、楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来の方へ、不可抗的に運んでいく。 その一方では彼の眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、〈この〉強風 なのだ。

歴史の概念について

進歩の物語は、つねに過去から現在へ、現在から未来へ、その歩みを止めません。そして、次々と敗れていった死者たちを生み出していき、しかし、一顧することもありません。「歴史の天使」は死者たちのもとに留まろうとしますが、できません。それほどまでに物語の未来へと進もうとする力が強いからです。

ベンヤミンの生きた時代、人間文明の進歩を疑わない人はいませんでした。過去より現在、現在より未来は、どんどんよいものになっていく。人間には輝かしい未来が待っている。誰もがそう信じていました。しかし、ベンヤミンにしてみれば、進歩の物語はしょせん勝利者の物語にすぎないものです。進歩も成長も本質はカタストローフであり廃墟です。勝利の陰には無数の敗れていった者たち、死んでいった者たちがいて、それら過去の存在が語られることはけっしてないのです。要するに、物語とは勝利者による支配の道具なのです。

勝者の物語はすべて現在の勝利から逆算されて語られるものです。勝利の物語に都合のよいトピックばかりが選ばれ、不都合なトピックは忘れ去られ、消されていきます。そのような歴史の物語をベンヤミンは極めて激しく批判しています。


引用する革命

星座の中にも輝ける一等星と目に見えない幽かな星があったように、物語にも、大いに語られる英雄もいれば、まったく語られない敗者もいます。いつでもベンヤミンのまなざしは、威風堂々とした勝利者に対してではなく、滅びていった敗者たちに向けられています。

そこで、ベンヤミンの歴史哲学は、敗者たちを救いだすこと、勝者たちの支配から解放することへと、話を続けていきます。そこにベンヤミン独自の革命論やユートピア論が描かれていきます。

ベンヤミンの生きた当時の革命家と言えば、当時は共産主義的な革命論を掲げる人がほとんどでした。しかし、それらの革命論は、古く遅れた政治は革命によって打倒され新しい時代が訪れると主張するものです。まさしく勝者の物語です。革命は勝たねばならず、勝つことが運命づけられているという主張は、ベンヤミンとは真逆のものです。

ベンヤミンの革命論に勝者や英雄は登場しません。むしろ、歴史の敗者に目を向けるところから始まります。歴史の物語には、現在の勝者によって否定された過去の敗者がかならずいます。

かつての諸世代とぼくらの世代とのあいだには、ひそかな約束があり、ぼくらはかれらの期待をになって、この地上に出てきたのだ。ぼくらにはぼくらに先行したあらゆる世代にとひとしく、〈かすか〉ながらもメシア的な能力が付与されているが、過去はこの能力に期待している。

歴史の概念について

ベンヤミンの語る過去との約束を果たすための「メシア(救世主)的」な能力とはどのような力でしょうか。それは、勝者の物語を破壊し解体する力、敗者を勝者から救い出す力、過去を現在から解放する力です。では、どのようにしてその救済と解放を実行するのでしょうか。ここで求められる力こそ、引用の力なのです。

そもそも引用は、文章のある部分をもとにあった文脈あるいは物語から切り離すことに始まります。それは物語の破壊であり解体です。そして、引用は、取り出してきた文章を、もとにあった物語とはまったく違った文脈へと、つないでいくことができます。多数の引用文を集めてきて、出あわせ、並べかえて、まったく違った文章を生み出していくことができます。引用してきたそれぞれの文章を星と見立てれば、この営みは、まさに星座を結ぶ行為です。引用と収集と配列は星座を描く革命論でありユートピア論です。

だから、ベンヤミンにとって、革命とはまだ見ぬ未来を切り開くこととは違います。彼は革命を万華鏡に喩えます。万華鏡には星々のようなビーズがいくつも納められています。万華鏡を覗くとビーズたちが星座のようにひとつの形を作っているのが見えます。万華鏡を一回転させて、また覗いてみましょう。さっきとはまったく違った形をビーズが作っているのが見えます。納められたビーズは何も変わりません。でも、見える形はガラッと変わっています。「革命」(レボリューション)とは、そのような「回転」(レヴォリューション)と同じです。ビーズをつないだ首飾りのように、過去を結びつけている現在の物語をバラバラにして、並べかえて、結びなおして、まったく違った形をつくること、すでに起きてしまった過去を別の形でつないでみせること、それこそがベンヤミンにとっての未来であり、革命であり、救世主(メシア)の訪れなのです。


すべての過去が救われる日

今回、ベンヤミンを取り上げた理由としては、ベンヤミンの星座を描く哲学は、実のところ、本質的にキャリアの話だと思うからです。まず「私」が星座的な存在です。

たとえば、小学生のころ遊んだ友だちとか、中学生のときの部活とか、高校生のときに読んだ本とか、大学生のときにした恋愛とか、新卒一年目にした仕事とか、そうした個々の経験が結びついていまの「私」を浮かび上がらせている。強い輝きを放っていつでも思い出すことのできる一等星のような思い出もあれば、記憶の奥底に沈んで思い出すことのできない思い出もあって、でも、いつかは思い出されたり、結ばれ方も変わっていって、その都度その都度「私」の姿もまた変っていく。そのような星座として「私」もあるのではないでしょうか。

生前のベンヤミンと親交のあったハンナ・アーレントによれば、ベンヤミンは「生まれながらの文章家であったが、一番やりたがっていたことは完全に引用文だけからなる作品を作ることであった」そうです。普通の著述家であれば、自身のオリジナルの文章を書くことを望みそうなものですが、しかし、ベンヤミンにしてみれば、オリジナルであることに大した興味はなかったのでしょう。ベンヤミンにしてみれば、「私」という存在も、引用のようなもの、すなわち、過去に読んできた無数のテキストの交差点のようなものだと考えていたのでしょう。過去に経験してきた数々の記憶たちの星座であると。

そして、キャリアはまさしくひとりの人間の人生の物語として語られるものです。輝かしい人生や誇らしい人生もあれば、険しい人生や思い通りにならなかった人生もあるでしょう。人の世は残酷なもので、人生の勝ち組と負け組を無情にも露わにしてみせます。そして、人生の勝ち負けを測る物差しは、いつだって人生の勝者の手に握られているものです。

自分の人生を振り返って物語を紡いでみたとき、そこには語られた出来事と、語られなかった出来事の二つがあるはずです。語られなかった出来事は、現在の自分にとって、たいした価値がないと思えたり、あるいは、思い出したくない辛い記憶だったりするのでしょう。でも、そこに自分自身の価値観ではなく、誰かの価値観のために語られなかったことはないでしょうか。

本来、人間の人生に起きたことに価値の軽重などないはずです。その人の人生が一回限りのものであるのなら、どんな経験であっても、かけがえのないその人の命そのものです。人間の人生を価値づけようとする勝者の物語こそ、書き換えられなければなりません。

様々な事件を、大事件と小事件との区別なく、ものがたる年代記作者が、期せずして考慮に入れている 真理がある。かつて起こったことは何ひとつ、歴史から見て無意味なものとみなされてはならない、という真理だ。たしかに、人類は解放されてはじめて、その過去を完全なかたちで手に握ることができる。いいかえれば、人類は解放されてはじめて、その過去のあらゆる時点を引用できるようになる。人類が生きた瞬間の全てが、その日には、引き出して用いるものとなるのだ。その日こそまさに最終審判の日である。

歴史の概念について

勝者の物語がバラバラに切り離されて敗者の物語へと編みなおされる日、その日を「最終審判の日」とベンヤミンは記します。現代に生きる私たちは過去との間に救済の約束をしていて、それゆえに「メシア」的な力をもたされているのです。

すべての出来事が救われる日が来る。それは人生についても言えることなのかもしれません。人生にはよいことばかり起きるわけではありません。黒歴史だったと痛々しく思うこともあれば、失敗続きだったなと苦々しく思うこともあるはずです。でも、自分の人生を「うまくいかなかった」というゴールで書いてしまえば、人生のすべてがうまくいかなかったものになってしまいます。でも、そうではないはずです。

人生の物語には語られたこともあれば語られなかったこともあります。「うまくいかなかった」という物語のなかにも語られなかった「うまくいったこと」もあったはずですし、大事にしたかった記憶もあるはずです。この語られていない過去を救い出してやること、それが自分の人生を救ってあげることにつながるのではないでしょうか。物語はつねに断ち切ることができるし、語りなおすことができるのです。

ベンヤミンの思想は人生の物語を再編集できることを教えてくれます。現在語られている物語をまずはばらばらに解きほぐしてみましょう。そして、取り出してみた記憶を並べ替えてみて、再度結びなおしてみれば、まったく別の物語として読むこともできるはずです。

もちろん、いまは難しいこともあります。でも、いつかは自分の人生の過去に起きたことすべてが細大漏らさずに救われる、そんな瞬間が来る。自分にもメシアが到来することがある。それを信じてみるのも大事なのではないでしょうか。


【了】

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