ここ最近でショックを受けたこと

僕はこのところショックを受けたこととして、自分の障害のことというより、座間の殺人事件のことを考えています。座間の殺人事件というのは、僕がその写真を見て思ったのは、そこで最終的な容疑者となっているのが、ぱっと写真を見た時、優しそうな男性だと感じたということがありました。

ただ、色々な記事を見ていくと、彼はどうやら、すごく優しそうな自分を演じることで、女性たちを招き寄せ、最終的に殺人に至っていくということがありました。僕はその事件のことを、非常にその写真を見てから興味を持つようになりました。

人はどうして人をそのように欺いたり、利用し、挙句の果てに命を奪うということが起こってしまうのか。

僕は人間のそうした、側面のことを、非常に恐ろしい側面だと認識しています。

ぱっと話した時に、良い印象を持ったとしても、僕はそういった人たちのことを、恐ろしいと思うし、さらには自分にもそうした側面があったのではないかと思い、非常に人間という生き物の恐ろしさを感じるということがありました。

僕は、いわゆるペルソナというのをやはりそれは人間の本当の内面を反映していないものとして受け取ります。優しそうな男性、しかしそれはペルソナです。

そのペルソナの背後にあるものに対して、きちんと想像力を持つということ、それはすごく大事なことではないかと思います。


僕は、その意味で、人間の心、つまり社会的コミュニケーションのなかで、必ずしも観察されているわけではない人間の心理にすごく興味があります。

心の病理にも関心はあります。僕は、もしかしたら、ある意味で、すごく心がおかしい人だったのかもしれない。僕は解離の症状はあります。その解離の症状で、頭の中に声が聞こえることがあります。

さらには、自分は今も人格が同時存在しているのではないかという気持ちがしますし、実際、人と目が合うと人格が変わる気がする、人格のスイッチングが起こる気がするということを、今感じています。

僕はその意味で非常に精神病理の当事者のようなところがあります。

僕はそれでも自分はやはり本当は内面を観察すると、確かに自分の内言というものが聞こえていなかったと思います。いつから、ということになると、もしかしたら、そこで嘘が入るかもしれないから、言わないようにしようと思います。


僕は、内言の代わりに、頭の中の幻聴が変わりに、その内言の役割を果たしていたのだとおもいます。

それは、非常に問題のある状況でした。

そのことにうすうす勘付き始めたのが、2019年にフランスに留学してから、そこで、幻声という言葉を知ってからです。


でも、僕は、本当は、自分の解離、つまり目が合うと人格が変わる気がする、は、大学の学生が主催している当事者研究会で発表しようと思ったことがありました。


僕は、そこできちんとそのことについて話ができていたら良かったと思いました。

僕は自分のペルソナが壊れてしまうことを怖いと思ってしまった、そのことがありました。


僕は、そういうことがあって、今は、結局、人格解離の症状があり、それは主に、実体的に解離しているのは、自分と自分♯の間の解離、自分の男性としての基本人格(主人格とも言うらしいですが)と、その交代人格である、どちらかというと、女性的なレズビアンの男性ということになっています。


そこで、自分と自分♯の解離ということになります。僕は、この文章は自分で書いています。つまり、自分♯に解離することなく、書いています。


自分が解離するのを防ぐプラグマティックな方法は、キーボードを見て書くことで、そして、それは手の動きをきちんと見るということです。

解離する時に、おそらくこのスクリーンを直視することによって、スクリーンに写った自我、の方が覚醒されてしまい、それで、自分♯に解離してしまう。

そのことを防ぐためには、自分の文字打ちをこのキーボードの平面の上できちんと遂行することを続けるということ、これをしていかないといけないと思いました。


僕は、この自分♯の問題というのを、どうにかしたいと思うし、それはこうた人格ならきちんと話を聞くことも必要になってくるでしょう。


僕はただその交代人格とは違う意味で、自分の内面を、その以前、自分の中に何かペルソナのようなものがあって、そのペルソナにひそむ病理、ペルソナにひそんでいたの方にすごく興味を持っています。


僕は、その意味で、本当に自分はまっとうな人間と言えただろうか、そんなことはなかったのではないかということを思うということがありました。


僕は、やはり精神病理を持っているし、その精神病理は本当にいわゆる触法精神障害者とか、そういうものを想起させるような、非常に内容の暗いものになっています。


僕は、その意味で、自分のパーソナリティの問題にどうしても焦点を当てたいと思うところがある。


解離もするし、妄想的になっていたこともあるし、それでなお自分にはどの意味において自分の残りの人生を有意義なものにしていく価値があるのか。


そのようなことを思います。


少し長くなりました。当事者の手記だと思ってくださいませ。自分のとりあえずは後、文章を書くということ、解離せずに文章を書くということの練習でもあります。自分はそれで何かを自分に触発されたものとを後で内的心理的報酬として得ています。ただ、それよりも、まずは、言葉の世界に入ること、そこで何らかの病理が発生すること、それはもしかしたら僕は、18歳の時、ある心理的なトラウマがあり、そのせいで、というよりそれは自分に非があることだとも思うのだが、そのせいで、自分の一貫した自己を形成できなくなり、ある種の二重人格に陥っていたということがあると思われる。

それは、やはり、自分の精神的未熟さの問題が招いたことだった。

今、念頭にあることは、少し幻覚としても感じられる。

僕は、そのことを語りたくないがためにまずは大学のレポートから解離が始まったのではないかと思っている。それは徹頭徹尾自分の心理的問題であった。そのことに関し、自分は正直なところ、反省しかない。

もし、それが自分の過失なのであったら、やはり、僕は、言葉の世界に入る時にそれをカットオフするしかなかったのだと思う。それは、でも、自分の、パーソナリティの歪みなのであったのだろうと思う。


そのパーソナリティの歪みはどこから来ているのかというと、それはやはり10代後半の頃に由来していると思われる。僕はそんな風に感じている。

僕はその意味で、精神的に不安定で、さらに、自分の解離という問題はもしかしたらもっと早くに始まっていたかもしれないということをどうしても思わざるを得ない。心の病気にかかる人間というのはいるけれど、僕はまず、自分の人格的な10代後半の頃の未熟さを考えざるを得ない。さらに、その後、いわゆる自分の一見まともそうなペルソナを作ってしまったこともこれは僕の責任である。

僕は、その意味で、自分の内面を絶対に見つめ直す必要があるのだろう。


この記事は投稿するかどうか大変迷っているし、自分のもう一つの人格は公開しようと思っているが、自分の人格はつまり主人格はかなり迷いがあるということをここに付記したうえで投稿することにしたい。それでもかなりの心理的抵抗があり、解離しながら何度も投稿ボタンを押しています。そのことはとりあえず付記しておきます。ということですが、やはり大事なのはスクリーンを見ないということになります。もう一つの人格よ、今はどうしても眠っていて欲しいんだけど。僕はそのように思っています。


僕はやはり言葉の世界から、しっかり承認されていないんだと思います。


最悪なことだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?