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一億総クリエイター時代

大きな本屋さんに行きました。
本がたくさんありました。(当然ですね)
「あ」と思い、何冊か手に取ってページをめくってみたのですが、どれもこれも難しすぎて「ひえ~」と思ってしまいました。
もう具体的にどこに「ひえ~」と思ってしまったのかもわからないくらいに「ひえ~」なのです。
内容がぜんぜん入ってこないのです。

まず、次々出てくる単語、とくにカタカナ語の意味がわかりません。
さらに、その意味不明の単語を羅列しながらよくわからない概念の説明をしているのでもうこれは日本語なのか?というレベルで理解ができません。
対談などでは、聴き手役が「と、いいますと?」と助け船を出してくれてはいます。「ナイス、助け舟!」と思い、「と、いいますと?」以下を読んでみるのですが、対談している者同士が理解し合えるレベルで完結してしまい、わたしは本に向かって「と、いいますと?」と言わなくてはなりません。
けれど、その時点で聴き手役も「なるほど」と腑に落ちてしまっているので、話し手はそれ以上説明することはありません。
わたしの腑にはなんにも落ちてこないのですが?という話なのです。

これは単にわたしの勉強不足という問題なのかもしれません。
では、この本の意味とはなんでしょう?「おまえは勉強不足なのだ」とわたしに知らせるためにあるのでしょうか?内容のわかる人物を選定するためのものなのでしょうか?
ちょっと腑に落ちないのです。

もう少し考えてみます。
では、本とはなんでしょうか?
本は、技術や思想、知識、感情を満足させる娯楽などを情報として提供する媒体です。
そして、売られているからにはその情報に価値がなくてはなりません。
価値観はひとそれぞれですが、本が売れるには情報を必要とする人がいて、その人が価値を感じる情報を提供するということが必要になってきます。
需要と供給。これは、本以外の媒体でもそうでしょうし、「お金」と「価値」のやり取りが生じるところでは例外なく当てはまる大前提だと思います。広く言えば、ひとを雇うということもそうだし、心を扱う分野や医療でもそうです。
と、すると人間である以上必ず関わる大事なことといえそうです。

もう一度、本とは?というところに戻ってみると、そもそも本ができあがるということは伝えるべき“なにか”があり、それを必要とする読者に届けようという意思がかたちになることです。
伝えるべき“なにか”があるので、本というのは本というかたちになって終わりではなく、必要とする人に届いてはじめて存在意義のあるものになるのです。

わたしは、大きな本屋さんで何冊かの本を「あ」と思い手に取ったのですが、結局買ったのは一冊でした。
わたしはじぶんに必要な情報を探し、見つけ出したのに、そこに価値を感じられなかったため買わなかったわけです。
わたしは、そうやってこれまでに何冊もの本を本屋さんの棚に戻してきました。何冊も、何冊もです。
これは単にわたしの勉強不足という問題なのでしょうか?
もちろん、買わなかった理由はさまざまで

・得たい情報ではなかった
・少し読んでみただけで理解でき、手元に置いておくほどではなかった
・文字の大きさや編集の仕方がじぶんにとって読みやすいものではなかった

また、じぶんにとって価値があり手元に置いておきたいのだけれど、価格が高すぎる、といった「買わなかった」ではなく「買えなかった」という場合もあります。

それで、今回の場合をよぅく考えてみると、とっても「惜しかった」のです。大きな本屋さんで何万冊の中からその本を見つけ、手に取り、価値があるか吟味するという工程まできているのですから。
もし、本の著者が棚の陰から覗いていたとしたら「よ~し、買え~、レジへ持って行くんだ~」と念を送っていたに違いないのです。

それなのに、買わなかった。
著者の念が足りなかったのでしょうか?
じつはそうなのです。
え?そうなの?とお思いですか?
では、聞いてください。

その本には、わたしの知りたいことが書かれているのだと思いました。
でも買わなかった。もし、その本を買うなら、その本を理解するための本がまた別に必要になるからです。
これは「木を切るためにオノを直す」ようなもので、現在のわたしにはそれが必要なことと思えない、つまり価値がないのです。
これは、「あなたがやりたいことをするために資金を得る方法を教えます」というビジネスと大変よく似ています。
もっと、望ましくないのはこの場合、「資金」も「やりたいこと」もどちらも手に入れられない可能性がある点です。本なら二冊買えば、二冊分の知識が手に入りますが、このビジネスの場合は提供する側が「あなたのやりたいこと」には関与しないことが圧倒的に多いのです。
提供する側が「資金を得る方法を教える」ことで利益を得ることが目的なのでそこで完結しているためです。
その後のことは、「と、いいますと?」と本に向かって話しかけているようなものなのです。
なので、「じぶんにとって価値のあるものなのかどうか」をしっかり吟味しなくてはなりません。本も、これからとる行動も。

わたしがこれから選ぶ本は、別のガイドブックが必要になるような本ではなく、直接得たい情報を提供してくれる本です。

ただ、本当に「惜しかった」ので、なぜ買わなかったのかという視点と、どうであれば買ったのかという視点でもう少し考えてみます。
本の置いている場所はよかった。
なので、わたしは本を見つけることができた。
本のタイトルも装丁も帯も本屋さんのPOPの言葉もよかった。
それで「あ」と思い手に取った。
なのに著者の念が足りなかった。
“じぶんは大切なことを言っているんだ。大切なことだから、この情報を必要としているすべての人間に届けなければならない。届けるためには、どう表現すればいいだろうか。どうすれば伝わるだろうか。必要としているのはどんな読者か。その読者はどんな表現なら理解できるのか。何としてでも届けなければならない大切なことなのだから”
という念が足りなかったのです。
この場合、きっと著者の目的は「本を出す」ということだったのでしょう。

ただ、わたしは残念だったんです。
理解さえできればわたしにとって価値のあるものだったに違いないのです。
どうであれば買ったのか。
タイトルのキャッチーさのまま、内容が綴られていたら…と、思います。
本のタイトルは著者ではなく編集者がつける場合も多いと聞きます。
なので仕方ないのか…とも思うのですが、ギャップありすぎ!
この場合、編集者は「本を手に取ってもらう」という目的を持ち、それを果たしているのだからなにも悪くないのですが。

誰も悪くないのに、こんな残念な気持ちで本屋さんを後にするなら、そろそろ「選ぶ」から「つくる」をやってみてもいいかな、と思い始めているのです。
一億総クリエイター時代なのだから。

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