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【読書日記】ゲンロン0 観光客の哲学(東浩紀)

グローバリズムが世界を覆い、テロ、排外主義、ナショナリズムが高まりを見せ、従来の思想が時代の状況に対する答えを出せないでいる中、私たちはいかにして新しい政治思想の足がかりを探し、他者とともに生きる道を見つけることができるのか。
一個の人間の生のあり方から、人類史的問題に至るまで、さまざまに読まれうる可能性に満ちた、スケールの大きな哲学書が誕生しました。
ルソー、ローティ、ネグリ、ドストエフスキー、ネットワーク理論を自在に横断し、ヘーゲルのパラダイムを乗り越える。
否定神学的マルチチュードから郵便的マルチチュードへ――。
著者20年の集大成であり、新展開を告げる渾身の書き下ろし新著。(「genron 」HPより)

哲学書をちゃんと読んだ経験もなく、書かれていることを全て理解できた訳ではない。しかし、私のような哲学に詳しくない人間にも読みやすい言葉で書かれており、咀嚼できなくても面白い。

第1部観光客の哲学、第2部家族の哲学(序論)からなり、特に第2部の第7章「ドストエフスキーの最後の主体」は特に興味深かった。最後のページは痛いところをつかれ、「ぐはッ」と吐血しそうだった。

いつの時代でも哲学者は子どもが嫌いである。けれども、ぼくたちはみなかつては子どもだった。ぼくたちはみな不気味なものだった。偶然の子どもたちだった。ぼくたちはたしかに実存として死ぬ。死は必然である。けれども誕生は必然ではないし、ぼくたちのだれも生まれたときは実存ではなかった。だから、ぼくたちは、必然にたどりつく実存になるだけでなく、偶然に曝されつぎの世代を生みだす親にもならなければ、けっして生をまっとうすることができない。子として思考するかぎり、チェルヌイシェフスキーと地下室住人とスタヴローギンの三択から逃れることができない。ハイデガーの過ちは、彼が、複数の子を生みだす親の立場ではなく、ひとり死ぬ子の立場から哲学を構想したことにあった。
子として死ぬだけではなく、親としても生きろ。

ここでの「親」は生物学的な親だけでなく、象徴的あるいは文化的な親をも含み、象徴的あるいは文化的な親の方がここでいう親の観念に近いかもしれないということだった。

私は40代になり、子どもを育てているのに「親として生きていない」という後ろめたさをもっている。ひょっとしたら、私以外にも同じように感じている人も多いかもしれない。「悪霊」や「カラマーゾフの兄弟」のイワンやスメルジャコフに強く惹かれるのは、「子ども」としてしか生きていないからかもしれない。「親として」が欠落しているからなのだろう。せっかく生まれて生きているのだから、「親として」も生きてみたい。

個人的な解釈で的外れな可能性があるけれど、「子として死ぬ」のは華々しい非日常的な「ハレ」の世界で、「親として生きる」のは日常的なうんざりするような「ケ」の世界にイメージが近いのかもしれない。子どもは思い通りにならないし、成長すれば親を否定するし、それなのに面倒くさい雑事は毎日続くし、体力は落ちてくるし、若い世代の人のキラキラした生命力は羨ましいし、「親として生きる」のはとにかく気が重い。親としても生きるのは本当に難しい。親に限らず、学校や職場で若い人を育てるのもまったく同じだと思う。

でも、その得体のしれない「子ども(若い人、自分とは価値観の違う文化など)」との接触が、見たことのない新しい景色にきっとつながるのだろう。だから人間は血縁に関係なく子どもを育て、若い人に経験を伝え、本を書き読み、違う価値観・文化に惹かれてきたのだろう。

得体の知れない、偶然に「誤配」された、子ども、他者を受け入れ、見守ること。子どもとしてだけではなく、親としても生きること。難しい……。でも未だに「子ども」として生きてしまう私の人生後半戦の目標なのだろう。​













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