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こだわりのバランスについて

 ねこっちと申します。去る10月、私は「心の不安定はマイナスのこだわりが作っている」ということに気づいてから、生活の中からこだわりを除き、今を最高に楽しむことを第一に考えて生活するようにしました。すると、それまでは悪い思考が中心であった私の心が見る見るうちに晴れ、秋の穏やかな晴天の中で、自然に包まれながら楽しい日々を送れるようになりました。心の余裕が大事であるということはよく言われるもので、以前の私もそのことは痛いほど感じておりましたが、実際にこだわりが消えてくると、以前は理想郷であった心の余裕が実際のものとなって現れ、これが心の余裕というものなのだなと自分でも驚くほどそれを感じるようになりました。

 マイナスのこだわりが減った時の体験は以下の記事に書きました:

 11月になり、ますます秋の風が気持ちよい季節となりました。虫好きの私は、次第に見かける虫が減ってくる冬は少し物寂しいような気もしてきますが、冬には冬の良さ、例えば極上においしい温かいスープや山の雪景色、クリスマスなどのイベントなどがあるので、これからの季節はそのようなことも楽しもうと思っています。(最近は物を書いていると、おのずからこのような自然の情景が浮かんでくるようになりました。これも心の余裕のおかげだと思います。)

 さて、この記事で書きたい本題ですが、心に余裕ができると、どういうわけか、些細なことに頓着しないようになってきます。例えば、昨日私は大学の授業を受けるために、母と2人で鈍行列車で地元から上京したのですが、ある駅にて、以下のようなことがありました。


 その駅で、私と母はトイレ休憩をし、母には「遅くなるから先に5番線に行っていて」と言われておりました。そこで私が5番線に行くと、乗る予定の始発電車が来たので、私はその電車に乗りました。しかし、私とともに乗った人が大勢いたため、今後1時間ほどその電車に乗ることを考えると、私は座る場所を確保しようと思い、電車の後方に移動してしまいました。そしてその後母が来たのですが、電車の後方に座ってしまっていた私を見つけられず、母と合流するまでに時間を要してしまいました。母からは「エスカレーターを上がったところにいて欲しかった」「先に行ってとは言ったけど、乗っていてとは言ってなかったよね?」と注意を受けました。私は、その時は嫌な思いがしましたが、すぐに落ち着き、母に淡々と謝ることができました(ただし、電車の中でしゃべる訳にはいかなかったので、LINEを使いました)。


 このようなことがありました。その後私は電車の中で量子力学の問題をせっせと解いていましたが、この問題を考えながら、どこか心が動揺している自分を感じていました。今回は確かに非は自分にあり、そこに頓着せずに素直に謝ることができたのですが、このまま何も頓着しないようでは、明らかに相手が悪い時も自分がさっさと謝ってしまい、不快感を自分の中にため込んでしまうのではないか?という思いから来る動揺です。

 恐らく、まだ私は「物事にこだわらない」ことを覚え始めたばかりで、それをうまく体現できていないように思います。いわば、何もかもこだわらなければいい、と思ってしまっている節があるようです。確かに、今までは能力とか天才とか、子どもとか大人とか様々なものに嫌というほどこだわり、精神を病んでしまっていた自分があったものですから、まるで針が振り切れたように「こだわらないこと」に転じてしまったのは無理もないことのように思います。ところが、(今回の電車のことは違いますが)自分が悪くない時にもそこにこだわらずにただ謝ってしまうのは、本当にこだわらないこととはどこか違うように感じています。

 その意味で、こだわりに対する私の観念は成長途上で、今後それが分かるようになるにつれてもっと楽になっていくものだと思います。

 いつの日かの私が、こだわることとこだわらないことをもっと正確に見極められるようになり、今よりも楽しい日々を全力で生きている日が来ることを夢見て、この記事の締めくくりとさせていただきます。最後までお読みくださり、ありがとうございました。

   ねこっち

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