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揺らぐ海と次元

小刻みに息を吐いて吸う。肺とお腹に少しずつ空気を溜めるのだ。こうすれば長く息を止めていられる。気合を入れて、一気に潜った。無音の底知れない海に落ちていく。深く、もっと深く。この瞬間がたまらなく好きだ。この瞬間に魅入られて海士あまになろうと思った。

シュノーケルと水中眼鏡だけで、海藻や貝を獲る漁師の男性も「あま」と呼ばれる。海に女と書く「海女あま」という名称のほうが有名なので女性だけの仕事と思われがちだが、昔から男性の海士も活躍してきたのだ。

元々はサラリーマンだった。出張先の港町で、この伝統的な素潜り漁を体験して、頭の中に雷が落ちた。俺はもっと海に落ちたい。初めて強烈な意志が沸き上がった。周囲の反対を押し切って独りで移住して、先輩海士の方々に弟子入りした。そこまでは順調だった。

海底で獲物を探すが、もう息が苦しい。諦めて浮上する。また収穫ゼロ。海面から顔を出して必死に息を吸う。練習しても一向に上達しない自分に苛立っていると、遠くから小さな漁船が近づいてきた。

「藤野君、精が出るねぇ」

先輩のベテラン海士、カツミさんだ。船には今日の収穫物がどっさりと積まれている。

「カツミさんも。今日もすごいですね。俺も早くカツミさんみたいな海士になりたい。でも、俺には才能がないのかも。全然上達しなくて」

「焦らないことだよ藤野君。誰だって最初は思うようにはいかないもんさ。根を詰めすぎても良くない。今日は嵐が来るらしいから、そろそろ上がりな。大丈夫、海は待っていてくれるぞ」

諦めそうになると、いつもカツミさんは俺を励ましてくれる。沈みかけていた心が浮上した。

「ありがとうカツミさん。俺、頑張ります。もうちょっとだけ練習してもいいですか。あと1回だけ」

「そうか。でも、もう風が強くなってきてる。本当にあと少しだぞ。ちゃんと帰ってくるんだぞ。いいな」

「はい!」

カツミさんの船を見送ってから、また身体に空気を溜める。意識を研ぎ澄ませて、潜った。海底に着いた、と思った瞬間に視界が揺らいだ。自分の足元に突然ぽっかりと穴が空いた。なすすべなく暗い穴に吸い込まれていく。


誰かに呼ばれている。目を開けたら見知らぬ3人に顔を覗き込まれていて飛び起きた。周囲を見渡せば、見覚えのない河川敷だった。奇抜なウェットスーツ姿の男女は、ずっと凝視してくる。

「生きてるなんて奇跡だ……!あなた十二次元にいたんですよ?!まともな装備も無しに一体全体どうやって……!ああ!気になります!お話を伺っても?!」

急にぐいぐいと迫ってきた若い男性に驚いていると、2人の女性が止めに入ってくれた。

「西君!ステイ!自己紹介と状況説明からでしょ!私、次元潜水による異次元調査というものをやっております境井さかいと申します。この困った人は一応、博士で私たちのリーダーです」

「あの、私は加納と申します。こちらの境井先輩と西先輩と一緒に次元潜水をしてます。次元潜水っていうのは……えーっと……次元と次元の境目を突き抜けていくというか……そういったものです」

何を言っているのかは分からないが、2人の丁寧な物腰に少し安心した。

「……どうも。俺は藤野といいます。さっきまで海に潜っていたはずで……。素潜り漁師の見習いなんです。次元潜水とか十二次元とか、よく分からないんですが、俺はどうやってこの河川敷に?」

また興奮し始めた西さんを、境井さんが羽交い絞めで止めた。しばらくして落ち着いた西さんが、咳払いをしてから口を開いた。

「失礼しました。つい暴走してしまって。僕らは十二次元、揺らぎの次元と呼ばれる場所を探索していました。その時あなたが突然現れたのです。僕らは次元潜水用のスーツを着ているので安全ですが、あなたはほぼ生身で気絶していた。危険なので僕らの作った次元ワープドアで緊急退避したんです」

「はぁ。えーっと、調査を邪魔してしまって、すみません」

「いいえ!とんでもありません!一般人が生身で、偶然、海底から十二次元まで潜れるなんて!奇跡中の奇跡に立ちあえて、僕はもう感激です!!」

「あー、ここからは私、境井がお話します。身体は平気ですか?」

頭を振って肩を回す。異常はなさそうだ。

「ええ。問題なさそうです。あっ!!」俺の大声で3人の肩がびくっと震えた。

「俺の船!もうすぐ嵐になるんです!流されたら壊れてしまう……!すぐに帰らないと」

「元の場所にすぐに戻るには十二次元にまた潜って、帰る場所を思い描きながら次元ワープドアをくぐらなくちゃいけません。全力でご案内しますよ。だよね?西君、加納ちゃん」

3人の頼もしい表情に、焦りが収まっていく。


待機する境井さんから次元スーツを借りて、加納さんと西さんと共に十二次元に潜る。シャボン玉の中に入ったような、摩訶不思議な空間だ。

「どうですか藤野さん。全てが揺らいでいて、美しいでしょ」

「ええ、本当に。海中で夢見てるみたいだ」

「実は深海は、宇宙よりも謎めいた場所なのですよ。各次元に繋がる海底トンネルのようなものがあっても、不思議じゃない」

「そのトンネルに俺は偶然吸い込まれたんでしょうか?」

「僕の推測が正しければ、そうかもしれません。でも、そうではないかも。もしかしたら、藤野さんのなにかを切に願う気持ちが奇跡を呼んで、十二次元まで潜れたのかも。意思の力は侮れませんから。ほら、これが出口のワープドアですよ。帰りたい海を想いながら、くぐってください。また一緒に次元潜水しましょう!」

「気をつけて。また会いましょうね藤野さん」

「西さん、加納さん、本当にありがとう。境井さんにもよろしく。またきっと、必ず」

西さんが設置したフラフープのような輪っかを、目を閉じてくぐる。目を開ければ泳ぎ慣れた海中に戻っていた。浮上しながら振り返る。静かな濃紺の世界が広がるだけだった。



★このお話は「次元潜水士」シリーズの5作目です。前作は「カラビヤウな折り鶴」となっております。
次のお話し→「喧嘩潜水士」



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