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父を送る

今年は、親を亡くすという初めての経験をした年でした。
父の死を通して考えたこと、書いておきたいことを、少し長く記しています。
※臨終そのものの描写が出てきます。ご自身にとって辛いかもしれない、良くない影響があると思われる方はお控えくださいませ。

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●父と私
とても個人的なことを晒してしまいますが……
家庭人として全く「よい父親」とは言えない父を、小学校高学年くらいからずっと、ほとんど軽蔑のまなざしで見ていました。大人の事情が多少はわかる社会人になっても、「愛猫が死ぬ方が辛いだろう」と思うくらい冷めたものでした。

それが変わり始めたのは、私が息子を生んだ2012年秋のこと。
息子を抱き見つめる私は、私の母になり、父になっていました。
こんなふうにして、父も母も、確かに私のことを見つめていた、ということを知る経験でした。
父が、転移ありの多発癌と診断され、何もしなければ余命3ケ月と告知されたのも、ちょうどそのころ、私が出産後に退院してまだ10日も経たない頃だったと思います。
1日も早い手術を、という状況下で、食道、声帯、舌の全摘をするか否かの決断を数日のうちにしなければなりませんでした。(同時に腸も切っています)
父はその後の闘病生活でも時折、一見冗談交じりのようにしながら「今神さまが一つだけなんでもくれると言ったら、舌が欲しい!」と言っていて、父のQOLを奪っても命が続くことを、家族が強いてしまったのではないか、という思いは度々浮上します。
口からものを食べられない、喋れない、その他もろもろ大変な後遺症。普通ならイライラして暴れても仕方ないのではないかとも思いますが、意外にも父はほとんどそういうことがなく、淡々と、しかし決して諦めることなく治療を受け、生活をしていました。好きな車の運転も、ずいぶん長く続けました。また、お調子者でホラ吹きだけれど、必ず大事な時には助けてくれる人が現れるような、不思議な徳をもった、というか悪運が強い?人でした。
私は闘病する父の姿を見て、はじめて父の本当の人間性みたいなものを知った気がします。

●父と子どもたち
また、父が孫である子どもたちを可愛がる、(それを私が見ている)、というのは、私が親にただただ愛されていたこと、そして私も親を、父を愛しているということを、確信させるばかりの経験でした。
子どもたちを抱くと、小さなころの私の話が次々と出てくる父。
手を繋いで、見つめて、心配して……こうやって私は、確かに愛されていた。愛情しかなかったのだと思いました。

父と子どもたちとの関わりにおいてすごいなと思うのは、父が喋れないことを、子どもたちが全く気にしていないことです。
さらっと説明したことはあったかもしれませんが、そんなに「なぜ」と詳しく聞かれた覚えもなく、それでも、子どもたちは本当に嬉しそうに父に抱き付き、話し、笑っていました。
当時まだ3歳にならなかった娘も、父に会うと、自然と手話のようなしぐさで何かを伝えようとしていて、子どもってすごいなと思いました。
(※父は筆談だったので手話はしません。手話というものを娘は知らなかったと思う)
ちなみに私は、2012年秋以降まったく聞いていない父の声を、今でもすぐに再生できるくらい鮮明に覚えています。

●死への準備
と言っても、私が父にしてあげられたことは、何もありませんでした。
息子が初めての誕生日を迎えるまでは、娘が生まれるまでは、息子の七五三までは、と、いつもひそかに、なんとかその成長を見てほしい、と願っていましたが、
それを頑張って叶えてきたのは、父本人と、支えた母でした。

再発転移後も手術、放射線、抗がん剤まで頑張り、もう出来ることがないとなった頃から、私自身は多くの闘病ブログを読むようになりました。
そしてゴールデンウィークの頃にはいよいよ状況が厳しくなってきたのを感じていました。
父が恐怖や不安、痛みと日々戦っているのではという思いから逃れられない。それなのに、自分は何もできない。娘の七五三までは、とか、息子の小学校入学までは、と本人に言うことが、もはや励ましになるのか、身を切るような絶望や切なさになるのか、わからない。

そんなころ、ヨシタケシンスケさんの『このあとどうしちゃおう』という絵本を読みました。数か月前には私の祖母がなくなり、息子はもちろん、娘も一応、「死ぬ」ということを分かっている。そして私自身も、子どものころ、死が怖くて仕方がなかった。だから、彼らへのケアの一つとして、購入したのでした。
けれど、寝かしつけで初めて読んだとき、こっそり涙を流し続けていたのは私でした。遠くないうちに旅立とうとしている人にも、それを見送る人にも、こんなに優しい死を見せてくれるものはなかなかないのではないか、と思いました。「本人にしかわからないけどね」という言葉に、救われました。
近いところに“信心深い人”がなかなかおらず、生活の中の宗教の匂いが薄い今の時代、こういう死後の世界を伝えてくれるものがあってもいいのかもしれません。
この本を父にプレゼントできるはずもない、し、父が今直面していることは、父の、父だけの世界だから、まわりは何もできない。でもそれでいいのだ、と思えたのでした。

そのころ慌てて用意したのは、父がずっと息子に買ってあげるのを楽しみにしていたランドセル。選びに行った工房で、背負って撮った写真を早速あげました。

●看取りとお産は、似ていた
そこからは坂を転がり落ちるように、「そのとき」へと近づいていきました。
以前から定期的にお世話になっていた緩和ケアの病棟に入院してから10日。
教科書通りに、せん妄、傾眠、意識混濁、昏睡という道を辿り、静かに息を引き取りました。
それでも、「血圧が低いので危ない」と病院からの連絡があり、「間に合わないかもしれない」と半ば諦めながら病院に向かってから27時間、家族で合宿のようにして見守る時間がありました。
息が小さく、間遠になってからでさえも、何時間も。
不謹慎かもしれませんが、小さなころ、死にそうな虫やなんかを小さな箱に入れて「生きてる?」と覗き込んではわずかに動く足や腹を見て確かめていたような、そんな感じでした。
ふっと顔を上げたら、その息が途切れていて、それでもまだ続く首の脈動をじっと見つめ、それも途切れるころ、急ぎ呼んでいた医師が部屋に到着する、という最後でした。

誰にもわからない道筋を辿ること、それでも、プロの見極めと頼れる安心感に助けられること。いつ来るともしれぬ「そのとき」を待ち、一緒にそこにいるために、家族みんなが、ほぼ寝ずに見守ること。「そのとき」に続く、「そのあと」に関しても、ケースごとにそれぞれ違う大変さ、辛さではあるけれど、経験者のアドバイスが一抹の助けになること。
看取りは、なんだか、出産のことを否応なく思い出させるものでした。

死が近づくと、時間の捉え方、記憶のスパンが変わってきたり、自分で出来ないことへの苛立ちが出て来ること。
そして次第に、寝ている時間が長くなり、目も見えにくくなること。
これは、人が生まれてから辿る経緯をさかのぼるようだなとも思いました。
きっと、始まりも終わりも、こわいことで、正視できなくなるようになっていくのだろうと思ったり。
最後は、人格や感情がやわらぎ、ただ懸命に息をする命のかたまりになっていて……それは、生まれたばかりの命に似ていないとは言えないんじゃないか、と思ってしまいました。

死へ向かっていく時間は、ただただ、そこに生きて居ること、存在があることを噛みしめ味わう時間でした。
それまでは、何かが心配だったり、もっと良くなってほしいとかがあるので、これは、ただ死へ向かう時間以外にはなかなか無いことだろうと思います。

●緩和ケアやセデーションについて
父が亡くなってしばらく経ってから、「毎日がアルツハイマー」というドキュメンタリー映画を観ました。
http://maiaru.com/
緩和ケア、そしてターミナルセデーション(終末期鎮静)がテーマの一つとなっており、専門医である西智弘さんのアフタートークも聞くことができました。
西先生は、「どう生きていくかを考えることが緩和ケア」と仰っていて、それは実感としてすごく納得できるものでした。

父は、前述のような静かな最期を迎えることができたため、私は、癌による死について、ある種、自然死に近いものなのではないかという感想を持っています。
自分自身がもしそうなった時にどういう選択をとるかまでは考えられていませんが、その、自然死に近い形、に持っていくのが緩和ケアなのではないか、と、今は認識しています。
ターミナルセデーションについても、意思伝達を奪うというより、最後の着地を、急降下ではなく、長いスパンをとったソフトランディングにするような印象です。

父は、癌の最先端治療を行う病院にかかりながら、早くから緩和ケア医療との関りを持っていました。だからこそ、「最期だから」という理由ではなく緩和病棟に入院し、体調を整え、退院するという経験を以前にもつことができていました。それは、希望に繋がったのではないか、もしかしたら、最後もそんな気持ちで入院したのではないか、というのが、むしろ私にとっての希望になっています。

緩和ケアの専門病棟では、臨終後のナースたちの対応も素晴らしかったです。亡骸としてではなく患者の一人として、最後まで丁寧なケアをしてくださいました。お風呂にまで入れてもらい、それを家族も介添えしたり見守ったりしながら、温かく、人間らしく扱っていただきました。死を悼む姿勢にしても、ただ神妙にするのではなく、ねぎらう気持ちや明るさも滲んでいて、私たちも線を引かれたように「遺族」になってしまうことなく、ずっと「家族」として、病院を発つまで、過ごせた気がします。

そういえば、静かな最期だったので、「そのとき」には私たちも静かに涙を流していたのですが……
息を引き取ってから数時間後に、病棟で出張コンサートがあるとのことで、「ご家族も是非よかったら」とお声がけいただき、やることのなかった妹と、片隅に座らせていただきました。そこで、「メヌエット」や「小さなメドレー」などの名曲、父が好きだった「川の流れのように」や「ふるさと」、そのときは誰の曲だかすらわからなかった(笑)「365日の紙飛行機」の演奏や歌声を聴き、思わず、父が亡くなってはじめて、妹とふたり小さな子供のように泣きじゃくりました。この美しい音楽が鳴り響く世界に、父はもういないんだと、実感したのです。あの美しい音楽は、一生忘れないだろうな。この世界は、ほんとうに美しいと思いました。

●生々しい悲しみと後悔、その後の経過
数日はバタバタしつつなんだかぽわっともしていましたが、それからは、じわじわと悲しみが込み上げてくる日々でした。
初七日の頃の手帳には、「憎まれても生きていて欲しかった」という書き込みがあります。
子どもの用事も何もなく、ひとりで休めたのはそのころが初めてで、あらためて、とても寂しい、という感情に支配されました。

ここへきて急に、ずっと、おそらく二十年以上も忘れていた、父恋しさ、という感情を思い出すようにもなりました。父に甘えたい、という気持ち。葬儀の時に用意した、幼い頃の私が父にしがみついている写真のせいかもしれませんが……。公園で近寄ってきた雀や、いつまでも割れずに私のまわりを漂う洗剤の泡に、「父かな」と思ったりすることもありました。
死に伴い、こういう「物語」を必要とするのは、こちら側に生きている人たちだと思いますが、一方この頃は、「まだ物語にはできない、シンボルにできない」という思いも強かったです。自分だけ淡々と生の営みをを送っているという申し訳なさや、哀しみを紛らわしたくないという気持ちもありました。

そしてだんだん、後悔というか、もっと何かできたのでは、という思いで考え込んでしまうようにもなってきました。
その後悔の向く先は二つの地点で、一つは、闘病生活の始めから最後まで(特に再発転移のとき)、常に乳幼児の世話に追われていることを言い訳に、父の治療に積極的にかかわれなかったこと。癌の治療においてはこの国で最先進と言っていい病院でお世話になってはいましたが、いくつかの大事な選択の時、もっと自分も情報収集したり、なにより心を寄せて一緒に考えることができたんじゃないか、ということ。

もう一つは、まだ父が在宅で意識がしっかりしているとき、子どもたちを連れて帰ったのですが、険しい顔をしている父に、何も言葉を掛けられなかったこと。いつも「いやいや、息子が小学校になるまでは生きていてもらわないと!」などと冗談交じりに言うことで励ます、ということばかりしてきたので、どうしていいかわからなかった。でも、それまでと同じことでも、言えばよかったのかな……あの険しい眼差し、私に何かを訴えかけるような眼が、忘れられません。おそらく、とても辛く、そして怖い時だったのではないかと思う。そのことがずっと、心に引っかかっています。

一ヶ月ほどが過ぎても、悲しみは濃くなるばかりだった気がします。この時期、仕事が一年で一番忙しい(というか一年の3分の1の仕事量が1ヶ月に凝縮されていたくらいの)時期だったので、それでだいぶ紛れてはいたものの、仕事が「老いと死」をテーマにした特集だったりしたもので…(笑)、なんでも父のことに寄せて考えてしまうようなところがありました。自分の中に、これまで見たことのないような傷があって、それがあるのはわかっているけれど、どう扱っていいかわからない、という状態だった気がします。

三ヶ月ごろには、再び仕事がピークに達しましたが、それでもだいぶ平常心に近い状態で過ごせていたように思います。かわりに、悲しみというより、何とも言えない喪失感、無力感を感じていました。
半年以上が過ぎた今は、こうしてまた、父のことをちゃんと考えてみたいなと思う気持ちになっています。


●死が教えてくれたこと

大切な人の存在が完全になくなる、という経験は、まずは、生も死も「ありふれたこと」であり、それだからこそ尊い、という気づきをもたらしてくれました。
そして、最期を看取るという経験は、「全ては、過程である」ということの体感的な理解に繋がりました。特に、子どもたちの「今」を、全て過程なんだ、という目で見ることは、育児をずいぶん楽にしてくれました。

また、身近な人の死にざまを見て思ったのは、人間は、その人生でなにを為したかではなく、なにが好きだったか、に尽きるんじゃないかということ。それは、父の死の数ヶ月前に亡くなった祖母を見ても思った事です。ほぼ意識がなく寝たきりの祖母に、子や孫がいくら話しかけても反応しなかったのに、大好きだった盆踊りの曲をかけると踊るように手を動かすのを見て、圧倒されたのでした。学問や名の付く趣味じゃなくても、自転車で風を切るのが好きとかぼーっと座っているのが好き、家にいるのが好き雑踏が好き、日が暮れる感じが好き、何でもいいのだろうと思います。その人が本当に好きなこと、もの、状態……子を育てる上でも、それを大切にしたいと思いました。
(その「好き」は、死んでからのことでもいいんだ!と目から鱗だったのが、『このあとどうしちゃおう』でした)

また、当たり前のことかもしれませんが、周囲の優しさにも救われる日々でした。
病院からの連絡があってから丸2日以上、子どもたちの面倒を朝から晩までずっとみている間、一度も「いつ帰る?」「どんな様子?」などと連絡せずに待っていてくれた夫。今になって気づくのは、私に、「子ども」として過ごす時間をくれたのだなということ。子どもたちの「母」ではなく、父の「子ども」でいられた、大切な時間でした。
そして、肉親の死を経験している人の優しい声かけもたくさんいただきました。わざわざ連絡してきてくれる人もいたりして、みんな本当に温かく、嬉しかったです。

じいじのことが大好きだった息子がふとしたときに発する言葉にも、何度も涙しました。お盆の頃、「ここがメキシコだったらよかったのにね」と言うので何かと思ったら、映画「リメンバー・ミー」で知った「死者の国」を思い出してのことだったり。スーパーにいっても、これはばあばに、これはじいじに、と言ってお花を買おうと言ってくれます。

子どもたちを見ていると、何度でも、そしていつまでもずっと、小さかったわたしと父を追体験できるんだということにも気づきました。
それだけ、子どもたちを通じて父と愛情のやりとりができたんだと思います。思春期以降にできなかった分を、取り戻すように。そして父は、闘病する姿を見せることによって、全く抱くことがないまま終わるんだと思っていた尊敬の念までも、私の中に残してくれました。若い頃は本当に酷かったけれど(笑)、なんだかんだで憎めない、と思わせてしまう、ずるい人だなと思います。

そして、父を見送って一番よかったと思うのは、死に方のひとつを、見せてくれたこと。「死んだら会える」とかそういうことではなくて、なにか、自分もいつか死ぬということと、そこに至るまでのことについて、とても勉強になったし、なぜか、安心したのでした。親って、子どもにこんなことを残せるんだなと思いました。


●参考文献、「それまで」と「その後」に助けられた作品たち
・ヨシタケシンスケ『このあとどうしちゃおう』ブロンズ新社
・下西風澄「10才のころ、ぼくは考えた」(月刊たくさんのふしぎ2018年6月号)
・瀧波ユカリ『ありがとうって言えたなら』文藝春秋
・五反田団(前田司郎)「うん、さようなら」公演
・映画「リメンバー・ミー」
・映画「毎日が、アルツハイマー」

余談……クリスマスに、子どもたちの保育園での発表会がありました。
今年が最後の舞台となる年長息子の演目の一つがなんと、「365日の紙飛行機」を手話付きで歌うというもの。泣かないわけがない!息子は、私にとってこの曲が特別な曲だということは知らないし、父は父で、手話は一切わからなかったわけですが(笑)、ことし父を喪った私を慰めてくれるようで、嬉しかったです。

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