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A' 【26】

 七海が三島亜紀の自宅を訪れるのは久々のことである。まだ夏の暑さが本格的なものになる前、当時交際していた男に暴行された彼女のもとへ、新しいスマホを届けたあの日以来だ。今日その番号へ電話をかけると、通話口に出たのは小町だった。それは何の問題もない。小町はマイカと違い、自分専用の端末を所持していないので、七海から三島亜紀への着信に出ることはこれまで何度もあった。むしろ、七海と小町が連絡を取り合う場合はいつも三島亜紀のスマホを通じてであった。三島亜紀が目覚めなくなって以来、毎日しつこいほどにモーニングコールをよこしていたのも、同じスマホからである。その迷惑電話が数日前にぱったりと止んだこと、そして今日の電話に出た小町の背後に誰かもう一人いる気配を感じたことが、若干、問題である。
 真っ先に七海の脳裏を過ったのは、最後にクリニックにやって来たあの日、見慣れない髪飾りをつけ、柄にもなく頬を染め、取り乱してみせた小町の姿だった。
 明言さえしなかったが、あの日小町は、独自の交友関係ないし男女間の交際関係があることを認めたも同然だった。「三島亜紀」を名乗り、亜紀本人の知らない誰かと付き合いを持っているのか、三島亜紀という存在を隠し「小町」として、その誰かと向き合っているか。どちらであるかはまだ確認できていない。だが、恐らく後者なのではないかと予想していた。だから、今日このドアの中から現れた坂本祐介をひと目見た時には当然、彼がその相手だろうと思ったのだ。
 だが、坂本祐介の自己紹介はこうだった。
「三島亜紀さんの、知人です」
 更に彼はこうも言った。
「連絡が途絶えたことが気になって訪ねてみたら、彼女の様子が普段と違ったんです」
 それがきっかけでつい最近、三島亜紀は多重人格者である事実を知った、と坂本祐介は言った。そこで七海は、ひとつ試してみた。
「あなた、ひょっとして髪飾りの彼かしら?」
 すると彼は目を泳がせた。正直者だ。あまりにも青い。正直者は時に大損を得るものだ。例えば今の彼のように、使い慣れていない嘘を上手に扱いきれなかった場合などに。
 もし彼が本当に「三島亜紀」の知人であれば、あの髪飾りも「三島亜紀」に贈ったということになる。だが七海は知っているのだ。小町が貰ったものであると。そしてそれはすでに、三島亜紀が長い眠りに入った後の出来事であることも。彼はそれを知らないのだろう。小町がボーイフレンドの存在を仄めかしていたなど、思いもしないのだ。だから余計なことを言った。「三島亜紀の様子がいつもと違う」などと白々しく。
 小町の名を知らず、「三島亜紀」だと認識していたとしても、今ここにいる小町と、彼の知る彼女とでどんなふうに「様子が違う」と言うのだろう。
 何のために、彼は嘘をついているのか。
 七海は、向かいのソファに並んだ二人を交互に見、そして小町に視線を止めた。
「確かに今日は、様子が変よ。――小町」
 そう言うと、坂本祐介の表情が強張った。膝の上で握りしめられている彼の拳を横目で見て、七海は更に言ってやった。
「彼氏の前だから、かしら?」
 小町は否定も肯定もしない。坂本祐介が恋人であれ、一方的な片想いの相手であれ、こんな場面では頬くらい染めてみせても不思議ではないが、彼女はむしろ青ざめている。
 石になる呪いでもかけられたように肩をすくめ全身を強張らせ、開いた両目は誰のことも見ようとせず、ローテーブルの上にひたすら視線を注いでいる。確かにこれは「様子が違う」のではないか。
 七海は気付いた。彼女もまた、嘘をついている。
 テーブルの上になど、彼女の探す言葉は転がっていない。今にも口もとまで支配せんとする呪いを解くための魔法の言葉は全て、すでに七海の手の内にあった。今や彼女にはすがる藁の一房さえも残されていないだろう。さあ、どうする? 七海は笑んだ。全てお見通しだと暴露して、何を企んでいるのか吐露させようか。それとも、もう少し虐めてやろうか。そう思案し始めた時である。
「高柳先生」
 勇敢な青年は、小町に助け舟を差し出した。「なあに?」七海は余裕を持って彼を見る。七海にとっては少し冷房が効きすぎているほどの涼しい空間で、若者はこめかみから汗を滴らせていた。そして真剣な目を真っ直ぐに向け、白状する。
「僕は、嘘をついていました」
「まあ。どんな?」
 七海は足を組み直し、前傾姿勢を作って見つめ返した。正直者の瞳の中には、不安と戦う彼自身が映っているようだった。見破られませんように、上手くいきますようにと強く願っている目だ。七海は昔、こんな眼差しを見たことがある。
 あれは大学生の頃だ。ある日、高校時代の同級生だという女が近寄ってきて、化粧品の販売員をしているのだと話し始めた。彼女がしつこく勧めてくる化粧品は、ブランド名もメーカーも聞いたことのないもので、値段ばかりがやけに高い。必要ない、と断ったが、女はまだ食い下がった。
 ――値段がちょっと高いって思ってるだろうけど、実は友達を紹介してくれたら、その人が買った金額の二割が返金されるシステムがあるの。つまり、たくさん紹介すればするほど儲かっちゃうってわけ。凄いでしょう? 嘘じゃないのよ。本当よ。本当に……。
 あの時の必死な目といったら、無様だった。相手が自分のことをどれほど信じているか、疑ってはいないか、どうにかして探り当てて安心しようとしているように見えた。今の坂本祐介は、そんな類の目をしている。
 この正直者の青年が、まだそれほど汚れていないその瞳で、どんな嘘をついていたというのか、あるいはそれすら嘘なのか。見ものだわ。マスクの下で口許が緩む。
 坂本祐介の喉がごくりと動き、日焼けした頬を伝った汗が、顎の先で玉になった。彼が遂に口を開くと、雫はぽとりと落下した。
「僕は、先生の仰るとおり、彼女の恋人です」
「ええ。気付いているわよ」
「本当は、三島亜紀さんとは、面識がなく……」
「つまり、小町の恋人ね」
「はい。……それで、彼女の様子が変だと言ったのは……」
 そこで彼はもう一度喉を上下させ、隣で俯いている小町の手を握った。小町がハッと顔を上げる。何かを期待しているようにも、不安がっているようにも見える、切ない横顔だった。そんな彼女に小さく頷いてみせたあと、七海に向き直った祐介は続けた。
「彼女――コマちゃんは、三島さんと『融合』してしまったのかもしれない、って思うんです」
 七海は彼を見据えたまま、少しの間考えた。そうきたか、若者よ。
 それから小町に視線を戻す。彼女はというと、恋人のほうに向けたままの横顔を再び固まらせてしまっていた。七海は思わずマスクに手を触れる。おや、おや、ここにも正直者がいるぞ。
 どこを突いて、何を吐かせよう。生意気な坂本祐介の口を、最後には自ら閉じさせてやるには、どんな呪文が最も効果的だろうか。慎重に言葉を選び、ゆっくりと口を開いた。
「それなら彼女は今、亜紀ちゃんと小町、二人ぶんの記憶を持っているはずね」
 最初の一言は、じわりと祐介に効いたようだった。彼もまた、じっくりとした口調で返す。
「ですが、僕は三島さんを知りません。だから、コマちゃんと融合したのが間違いなく三島さんであるとは、断言できません」
 なかなかの答えだった。疼く唇をぐっと引き締め、七海は問い返す。
「他の人格であるかもしれないと?」
「そうです。三島さんの中には、あと二人、いると聞いています」
「誰から?」
 すぐさま打ち返してやった言葉を、祐介は受け取ったきり投げ返してこない。七海は待った。探せ、探せ。私を上手に騙し通せる言葉があるのなら、それを探して見せてみろ。
 だが、相手はあまりにも若かった。浅はかで、単純で、情熱だけで世界を動かすことも可能だと、妄信している若輩者に過ぎなかった。大人の女を楽しませるには力不足だ。行き当たりばったりなど通用しない。そのことに気付いたのか、祐介はそれまでの強い眼差しをゆらゆらと震わせながら、それでも悪あがきをしてみせた。
「カイ君という、人格にです」
 七海は遂に笑い出してしまった。もう堪えきれない! 腰を折って大笑いし、ようやくそれが落ち着くと、目頭を押さえて二人に向き直った。
「意地悪しちゃって、ごめんなさいね」
 ぽかんと口を開けている二人に、七海は言った。
「ちょっと、嫉妬しちゃったのよ」
 私ったら、いつの間にか亜紀ちゃんに、親心を抱いていたみたいね――。
 そう告げると、二人の表情が間抜けなほどに和らいだ。張り巡らされていた緊張と警戒の糸が、一本ずつ千切れてゆくのが見えるようだった。「すみません」と、無意味な謝罪を口にしながら頭を掻いた祐介を微笑ましく見た後、七海は切り出した。
「話がそれてしまったわね。……小町は、誰かと融合してしまったかもしれないと、あなたはそう思うのね? 坂本君」
 祐介はハッとしたような顔つきになり、やがて黙って頷いた。七海もまた頷きを返し、彼の嘘に付き合った。
「カイからは、他に何か聞かなかった? 例えば、そうね……。眠り続けていた亜紀ちゃんの行方とか、もう一人の人格……マイカという女の子なんだけれど、彼女が最近消えてしまった、とか」
 祐介への質問だったが、顕著な反応を示したのは彼ではなかった。七海が声を掛ける前に、祐介が素早くその肩を支えた。
 祐介に半身を預けた小町は、ぐったりと目を閉ざし、口許に手をあてがっている。顔色は悪い。祐介はまた「すみません」と口にする。体調の悪い彼女に代わり、七海へ向けて言ったのであった。いかにも恋人らしい様である。
「彼女も、混乱しているみたいで……」
「そのようね。この話は、もう少し後にしましょう。ところで」
 小町に胸を貸したまま、祐介が顔を上げる。目と目があってから一呼吸分の間を置いて、七海は続けた。
「私に連絡しようと思っていたというのは、どんな用件だったのかしら?」
 再び沈黙が流れ、やがて祐介は答えた。
「ヒロオカナツキという人物について、何かご存じではありませんか?」
 そしてまた沈黙――七海は堪えていた。驚愕、笑い、そして真実。それらが喉の奥から飛び出してしまいそうになるのを、マスクの中に留めておくには、目を細めて別の表情に見せかけるしかなかった。これは、どんな顔つきに見えるだろう。ほほ笑んでいるように見えるだろうか? 怪訝そうに見えるかもしれない。はたまた、怪しんでいるように? 今更、どれでもよかった。七海はただ思う。やはり潮時だ、と。
「不思議ねえ」
「え?」
 やけに子供っぽい目をしてみせた祐介の顔には、疑問符ばかりが張り付いて見えた。その顔を見た七海はもはや、感情を偽ろうとは思わなかった。こんな子供を相手に、駆け引きなど成立しない。だから、一思いにとどめを刺してやった。
「夏樹のことなら、亜紀ちゃんも小町も、よく知っているはずだけど?」
 祐介は何も言い返しては来なかった。どんな言い訳も、今度ばかりはひらめかないようである。当然だ。今、彼が胸に抱き寄せているその女が、他の人格と融合を果たした小町であるということそれ自体が、初めから嘘だったのだから。七海は見抜いた。あれはマイカだ。誰とも混じり合ってなどいない、マイカそのものだ。
「失礼するわ」
 呆然としている二人を置き去りにし、七海は退室した。追って来る者はいない。玄関のドアを閉ざした瞬間、見計らったかのようなタイミングで、バッグの中のスマホが振動した。発信者の名前を確認し、舌打ちした。
「あんたも、用済みよ」
 森田外科医からの着信に出ること無く電源を切り、バッグの中へ放り込んだ。ぱくりと口を開いたその闇の中から、代わりに煙草のハードケースを取り出す。エレベーターを待つ間、「禁煙」と書かれた貼り紙を睨み、下ろしかけていたマスクを再び、彼女は引き上げた。


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