見出し画像

『暇と退屈の倫理学』

やふぅー٩( 'ω' )و
今回は、読んだ本の感想を書きます。


國分功一郎著 『暇と退屈の倫理学』 (新潮社、2021)


読んでみたかった本の1つ。

偉大なる、哲学の大先生が各章に引用され、彼らの主張を著者が分かりやすく解説している。
解説が丁寧過ぎて、支えられながら読んでいるような感覚になる書き方である(本書の最後には、結論まで書かれている)。

それにも関わらず、本を開いてから、読み終わるまで、私の頭にちらついていたのは、人の持つ虚しさである。

「考え続ける」ことの重要さは、本書にも記載されている。
しかし、これもやはり今ある環境を与えられた者が、同じ立場を持つ者へ意識するように呼びかけているようであったり、問題提起しているように思う。

本書に出てくる、哲学者たちの生きた時代と現代は異なる。
日本は国も異なるし、文化も異なる。
その中にも、共通点はあるものだ。
それは、正直あまり好ましくない、様々な格差だと思う。

本書を読みながら不思議に思うことは、日本の文化だ。
ひたすら、誰かに従って生きており、意見する方が損をしてきた世代がいる。
考える方が損をし、言うほどに損をする(「出る杭は打たれる」的な)
または、粗雑な言い方になるが、考えることをさせない。
こういう、おかしな時があった(ある)はずだ。

このような人たちに、「生き方」や「あり方」を問うことの意義や、
本当に考えることが必要なのかと思うのだ。
すなわち、問うことや考えることは、どこまで必要とされるのかと、
疑問が生じる。
もちろん、私にそれは分からないし、何か思ったところで明言することは不可能だ。
どこまで意味のあることなのか、必要あれば、あらゆることを全部ひっくり返して読んだ方が良い気がしてきた。
特に、哲学のような、生き方やあり方を問うような本は。

私は哲学とは、一緒に隣を歩いているようなものであると思う。
本に書かれた主張と対話しながら、現代に生きる自分自身や、自分を囲んでいる状況と対話する。
時にツールであり、時に先生であり、時に親友のような。

考え続ける。
これは、隣を歩いているような存在なのかもしれない。
内容理解は半分ほどであったとしても、理解50%ならば、未読時と同じで良いとは限らないだろう。

私は、この考え方を、電車に乗る/乗らない、というようなイメージをして、考えてもいる。

電車が見える→問題は見えている
電車が目の前で停車している→内容理解

その後、電車に乗るか乗らないかという選択肢は、読者に与えられた、
本に提示されている問題提起なのだろう。
読書後に、「さあ、どうしようか?」という問題。


ここまで、感想のみ書いてきた。
本書は、暇と退屈が何であるのかを、追求している。
暇と理屈の仕組みを、定義と時代背景から言及しているのだ。
また、繰り返しになるが、非常に丁寧に解説されている。


暇だな
退屈だな

でも、それって何だ?

ぜひ、読んでみてください。


この記事が参加している募集

読書感想文

読んでくだり心から感謝します。 サポートいただけたら、今後の記事に役立てたいと考えております。 スキしてくだるのも、サポートもとても喜びます!!!!