璦憑姫と渦蛇辜 18章「月代の船出」②
昨日の狂乱が嘘のように鎮まりかえった浜辺にタマヨリとワダツミは腰をおろしていた。いつもよりいくらか波の高い鈍色の海を眼前に、浅い眠りを繰り返していた。どちらかが眠ればどちらかが覚める。
何も問わず何も語らないふたりの間を小蟹が横切っていく。寄せる波に洗われる小石は引く波にカタカタと鳴った。
陽が天頂に届こうとするころ、歩み寄ってくる人影が見えた。
「久しいな」
とワダツミに向けて声を発したのは礁玉だった。
「礁姐………!」
「よくここが分かったな」とワダツミは応じた。
「うちには目のいいやつがいてな」
と礁玉は傍らのウズを示した。横にはハトと他にも4人ほど海賊が控えている。
「なあタマ、この男に話があるんだが借りてよいか?」
「え、ああ構わんが。それはそうと戦はどうなったんじゃ?」
「賽果座の王やお偉い一族は恐れをなしておるわ。兵も同様、あの世の者とは戦えぬと戦意喪失のていたらくだ」
「そうか………」
タマヨリがほっとした嬉しげな顔を見せたのを礁玉は見逃さなかった。
「満足か?」
「………いや、別に、おれは………な、何も知らない、よ」
そんな誤魔化しが通用しない礁玉は、昨日の事はタマヨリの仕業と決めつけた。
「やってくれたものだが………理由が分からんな。どちらの得にもならんことを………」
「肚竭穢土の王が死んだぞ」
ワダツミが顔色を変えることもなく口を挟んだ。
「本当にか!?」
礁玉とタマヨリの声が重なった。
「向こうにいる魚類が伝えてきた」
乙姫が手下の『下海』の者を使いに寄越したのだろう。どのような術で彼が知りえたか礁玉には分からないが、疑う理由はないと思えた。
「好機ではないか」
礁玉が微笑めば、海賊達が呼応した。
「じゃあお頭、あの小島で身動き取れねえ皇子やっちまえば俺たち勝ちじゃねえか」
「岐勿鹿に手を出さないで!」
タマヨリは礁玉にすがった。
「ほおら、そういうことじゃないの」
礁玉が合点がいったというようにうなづいてみせたのを、タマヨリは慌てて否定した。
「そういうことがどういうことか知らんが、そういうことじゃない!」
「それじゃあなーんにも通じないんだよ」
「とにかくだめったらだめなんじゃ」
「こいつは何度だって黄泉の蓋を開けるぞ」
掴み合いになりかけたふたりは、ワダツミを振り返った。
「できると分かったんだ。何度でも阻むだろう」
「そりゃあ困ったねえ!」と礁玉。
口の中でもごもご云い訳を噛むタマヨリを無視しワダツミは続ける。
「宝珠をよこせ。それで俺たちは人界から手を引くことになるだろう」
「ああそうかい。あんたが肚竭穢土に肩入れしたのはあれが欲しかったからかい。あんたに逢ったきっかけもあの宝珠だ。もうあたしには必要ない。巡り巡れば元の場所に戻るんだろうよ、いいよ、あんたとは少し話したかったんだ」
礁玉はさばけた口調でそう云った。
もともと肚竭穢土の威光が賽果座にあるように見せかけるために、來倉より強奪した宝だ。それによって周辺の小国を従えるに至ったが、表立って肚竭穢土と争うようになってはただの飾りでしかない。
「カイ、おまえひとっ走りして宝珠を盗ってこい。ワダツミ様にお返しするんだ」
「盗ってこいって………。王様のとこにあるんだ、おれには無理だよお頭」
「あたしが行けといったら行くんだよ。ほら、ウズとフナトも一緒に行ってやりな」
渋るカイを走らせると今度はハトに、
「ハト、この姫をあたしの屋敷まで送ってやれ」と命じた。
「任せてお頭」
ハトは『いさら』をタマヨリに代わって担ぎあげた。
「礁姐……何を話すの?」
「大人の話さ。そうだ、あんた達も野暮だねぇ。散りな」
と手下を遠ざけた礁玉は、ワダツミをともなって海岸線づたいに雑木林の中へ入っていった。始終無言で進んでいく。道なき道は上り坂になりまばらな木々の間から海が見下ろせた。
海からの風に礁玉の髪が膨らんでワダツミの方へ流れた。
「話などないのだろう」
「話くらいあるさ、積もる話がね。その面、ずいぶん行儀がよくなってるけどいったい何があったのさ?」
「………云うなら、帰り仕度といったところか」
入れ墨の消えた腕をしげしげと見ながらワダツミは答えた。
「ふうん。男前はあがったけど、なんだか物足りないねえ」
「物足りない……か」
礁玉がワダツミの耳に触れ、そこから消えた入れ墨の痕跡を指でなぞっていく。
額、頬、顎から喉元へゆっくりと降りていった。斑けた跡は女の指先で共寝の記憶と共に甦った。ワダツミの目が細くなった。
「話すより楽しい事がしたいって顔だ」
「おまえは違うのか礁玉」
「砕けた波の後に生まれてくる波頂を見ているとさ、次はもっと高くって期待するだろう?」
ワダツミは一笑に付した。
「あんたはあたしの欲しいものが分かるかい」
「ああ」
「当てて」
と礁玉が耳元で囁く。
「俺の首」
短刀がワダツミの喉元に押しつけられた。
「殺せぬぞ」
「でも死んで」
礁玉が身の重みをすべて切先にあずけて、そのまま横に引いて裂こうとする。その手をワダツミが捕らえて引き剥がそうと込めた力で、礁玉は横跳びに飛んだ。
礁玉が宙で弧を描くのと同時に、矢が飛んできた。
飛び退く礁玉をかすめるように放たれた矢を射ったのは浪だった。
何かを察した礁玉が浪からもワダツミからも距離をとった。
浪が再び矢をつがえたのに応戦してワダツミは腕を背にまわす。その裡面から『波濤』を引き出し構えに入ろうとすると、足元から競り上がってきた杭に包囲された。
天井のない檻に囲まれたような見かけである。踏み抜くと仕掛けられた木杭が地中から射出する仕組みであった。礁玉と浪とに意識を向けさせ、気取られぬうち罠まで誘導する。礁玉のみに許される手管であった。
木杭は太く、彼を射抜くのではなくその場に足留めする目的である。しかし『波濤』の一振りで薙ぎ倒されるのは自明だ。
「しみったれた罠だ。浅ましい」
ワダツミはそう云い捨てた。海賊が何人束になってかかってきても彼にはどうということもないのだ。遠のく礁玉の背を見てすっかり興を削がれた顔をしている。
まず邪魔な木杭を跳ね飛ばそうとした時、前方から丸太が迫ってきた。
樹上より吊るされ振り子の要領で勢いをつけた丸太には、太刀を構えた亥去火が乗っている。
杭はワダツミの動きを制限し、長さのある鉾の構えは自ずと限られてくる。亥去火はまっすぐにワダツミの喉を狙いその速度のまま突っ込んでくる姿勢だ。
「さあその首もらおうか!」
亥去火と正面から向かい合う形となったワダツミは、木杭に阻まれたまま『波濤』を掲げようとした。しかしその腕は『波濤』を持ったまま宙を舞った。
「!」
正面の亥去火はもちろん、側面の浪もあちこちに潜んだ海賊たちにも注意を払っていた。いや払っていたからこそ、亥去火が反対の手に鉈を隠していることを見過ごした。
彼は喉を突くと見せかけて、狙いは厄介な鉾を奪うことにあった。急所を狙っても外せば次の手は打てない。一方的に蹂躙されて終わりになる。
腕の位置を木杭によってあらかじめ制約し、気取られぬようにしかも一撃で鉾を落とす。
宙を舞った腕は浪によって回収された。ここからが亥去火の本領発揮となる。
彼の乗った丸太はワダツミを跳ね飛ばし、ふたりは縺れあうように茂みの中に倒れ込んだ。
「策ばかり弄して楽しかろうな。負け犬のままでおればよかったものを。吠えるから死ぬことになる」
腕を奪われても居丈高な態度を崩さないワダツミに、亥去火はすかさず手にした太刀を振るったが、切れた腕から噴き出す血に視界を奪われた。
首を捉えそこねた太刀をワダツミが奪い取ろうとし力比べになった。押しに押す亥去火の剛力に、ワダツミも腕一本では敵わない。
「戻れ『波濤』よ!」
念じれば我が元に返ってくるはずの鉾が、呼べど来ない。
ワダツミは太刀を諦め、亥去火から体を離した。
林のすぐ後ろは断崖になっており下は海だ。浪は即座に取った『波濤』を腕ごと波座と礁玉のいる海へと投げていたのだ。
それを咥えた波座は全速力で海を走って遠ざかっていた。目で追うこともかなわない。『波濤』の気配だけが波の向こうから伝わってくる。
すぐさま海へ飛び込もうとするワダツミに亥去火は飛びついた。
「行かせるかよ。てめぇはここで終いだ!」
首に腕をかけ引き倒すと同時に、ワダツミの背に矢が降り注いだ。
ワダツミは亥去火の腕を外し、蹴り飛ばすと地面に刺さった弓矢を抜いた。
それを亥去火と浪めがけて投げ射た。
刹那に浪は避けたが、亥去火の脛を矢がかすった。
浪の顔が引き攣るのを見てワダツミがにやりとした。
「毒矢なのだろう。猿知恵が」
ワダツミは背中の矢を抜き去ると、腕から滴る血を背に浴びた。
「<浄>」
と云えば傷が癒えこそはしないものの、おそらく毒の回りは止まったのだろう。何事もないように腕の断面を、裂いた着物の布で覆った。
「『波濤』を奪ったから何だと云うのだ。弱い人間が群れて挑んで、結局は死ぬ。どんなに足掻いても俺には勝てぬぞ」
「だからって負けたままじゃいられるかよ」
亥去火が矢を踏み砕いて立ち上がった。
「亥去火、今すぐ肉を抉れ!脚から全身に毒が回るぞ」
ワダツミを挟んで対局にいる浪が叫んだ。
「時間がもったいねえ。勝機は今しかねえんだ」
「麻痺がくる!手当が遅れれば死ぬぞ!」
「その前にこいつとけりをつける」
そう云うや落ちていた鉈を拾うと地面すれすれに投げた。それに足元をすくわれたワダツミの体が浮いた時、距離を詰めた亥去火の太刀がワダツミの左肩に食い込んだ。
「援護!」
と浪が号令した。
「毒は使うな」
その声に周りを囲んでいた海賊たちが一斉に踊り出た。
ワダツミは肩の太刀を抜きとり、振り向きざまに海賊たちを切り伏せる。その顔面に亥去火の膝蹴りが入り、体勢を崩したところに浪が石槍を突き立てた。
「<浦波>!」
ワダツミは群れ寄る海賊たちを腕ひとつで刎ねながら断崖の先へと向かった。
彼の声に呼応した海が、断崖を競り上がり津波のように海賊たちに押し寄せた。
「木に登れ!流されるな!」
浪の声に海賊達もすぐに動いた。
しかし亥去火は矢を受けた脚がもつれ、そのまま波をくらった。正面から押し寄せる波の体積を木にしがみついて何とかやり過ごし顔を上げればワダツミはそのまま海へ向かおうとしている。
「礁玉は追わせねえぞ!」
ワダツミは足を止めた。突如、断崖の先端の中空に水の玉が現れ、彼の行く手にゆっくり扇を開くように広がった。
そのまま扇形を保った水は、表面に女の姿を映し出した。
「汝兄どの」
と紫の衣を纏った女は呼びかけた。
「乙姫ではないか」
即席の水鏡を通して乙姫は、
「『波濤』と女の居所は見つけたゆえ、こちらへ」
と手招きした。
「ほう、如才ないな」
ワダツミがそのまま水に手を伸ばすと、扇形の水は彼を両側から包みこむ様に形を変えた。
「待てぇー!」
地上にいた亥去火は誰よりも早く飛び出した。
片足をほとんど引きずるようにしているのを見逃さない浪は、止めようと樹上から飛び降りた。
「おい亥去火、もういい!」
「浪!行ってくる」
亥去火はにっと歯を見せて笑うと、そのまま閉じていく扇の中に飛び込んだ。
ばしゃりと水が地を打つ音を立てた時、断崖の上にはもうワダツミの姿も亥去火の姿もなかった。
続く
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