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11月の歩兵[短編]

その野をいく。

乾いた風が背をおして、草を搔きわけ、丘陵をかけのぼる。頭上いっぱい、空だけが広がって青い球を内側から見ているようだ。

光はあふれかえって雲はゆっくりゆっくり流れて、空には飛ぶ鳥の影ひとつなくて。

歩兵は独り、ただひたすらに進む。時に胸元まで伸びた草を掻き分け、たいていは膝ほどの麦のような枯れ穂の白茶けた草を踏んで。同じ歩調で、編上げ靴の下でざぐりざぐりと茎の立てる音も同じで、何処までも何処までも草原が、何処までも何処までも青空が繰り出され、背後へ流れていく。
風だけが彼を追いこす。

その風に音がまじる。
遠くから、丘陵を幾つも幾つもまたいだ向こうからその音は来る。火薬が鉄を押し出す音。山ひとつ崩れたような空気のわななきの尾が、歩兵の耳朶に届いた。
よそよそしいほど重みはなくとも、早る背にのしかかるその音。
ひとつの事象が伝令される。

放たれた。

大勢の兵士は塹壕に身を伏せるだろう。
そこに歩兵もいたのだろう。
しかし今、独り野をいく。

それから祝祭の日の音に似た、喧騒。
金管楽器の伸びやかに空に吸い込まれる音色。
聴こえるはずもない。
村祭りの祭歌。
鉄はにぎやかに、声はのびやかに。
続いて娘たちの円舞。
草原の向こうに、丘ひとつ向こうに、翻る亜麻色の長い髪。
逢えるはずのない。
いつかの故郷。

彼は背中の重さの頼りなさから、背嚢をしょっていないことに気づいた。腕の一部になっていたような銃も、いつの間にか手にはない。
立ち止まって振り返った。
落としてしまったのか。ならばどこで。
ふみ倒してきたはずの草の道はすでに紛れて見分けられない。

叱責されるかもしれない。
戻るべきか逡巡したが、今はそれより大事なことがあったはずだ。
進まなければ。

伏せた目の端で、風と共にチカっと光がはじけた。
足元に伸びる穂の先に産毛があって、そこに小さく光がたまっている。もう少し丈高な穂は箒のように広がって、やはり光を含ませ銀色に揺らいだ。
剣のような葉の形はどれも似ているが、背丈や穂はそれぞれ違って丘ごとに群れを作っている。
あっちにもこっちにも伸びた穂は、風に撫でられ逆光にチラチラと揺れた。
それらは光をはらむ娘たちの髪にも似て。

草原まるごと光ったように、眩しく眩しく輝いた。

歩兵はその中を二、三歩進んだ。

進んで、とまった。

思い出せなかった。
何処へ向かっていたのか。
何故進んでいたのか。
彼はすっかり迷子だった。

黄色く色づいた葉の下で、小さな実が同じような黄色にペカペカ光っていた。紅の花は立ち枯れて、夕暮れのちぎれ雲のような薄桃に変わっていた。
枯れ草は所々にむらさきがかり、野は白茶の中にわずかな色彩を織り込んで目を撫でる。

風の音のほかはなく。

生きているものの気配はなく。

溢れんばかりの光だけが、肌に暖かく注ぎ、風がその温度をすぐに奪っていく。

野辺は冬へと向かっているのだ。

歩兵は途方に暮れて、空を仰ぐと、凧がひとつ流れて来た。
はるか上空、青の中に赤く流れる凧。
誰かが操っているのか、見るまに風に乗り高々と登った。
彼は始めそろそろと、それから駆け足になって凧の繰り手を探した。

豆粒ほどにまでなった凧を見失わないように、虚空をあおぎ進んだ。

凧は遠いけれど、見覚えがあった。
子ども時分に、父親とあげた凧だ。赤い翼の美しい形の。

彼は走った。
ある日、糸が切れてあっという間に雲間に消えた凧。
どれだけ探しても見つからなかった凧。
どんな風の日も、父親は器用に凧を操ってみせた。
独りでとばして、なくして泣いたあの凧ならば。
くゆらせているのは父親だ。

どれだけ駆けても息が切れないかわりに、どれだけかけても凧の下へはたどりつかなかった。
丘の向こうに、亜麻色の髪がなびいて、そして歩兵を振り返った。
帰ろうと思った。
歩兵はそのまま、故郷へ帰ろうと思った。
迷い子ならいっそ。

何かに躓いて足元を見ると、兵士が仰向けに倒れていた。
大の字になって、両の目を見開いたまま。
彼がすいぶん若いことに歩兵は気がつき、すでに息絶えていることにも気がついた。
しゃがみ込んで、腕を組んでやり、自分の軍帽を顔の上に掛けた。
自らの顔の上に。


11月の野では、すべてが冬へと向かっていた。






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