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1年の始まりは誕生日

ないないづくしの元旦


令和6年元旦の朝食は、お雑煮なしおせち料理なしである。
ないないづくしの元旦、初日の出が眩しい。
いつものように、4時に起床。
5時から1時間ジョギングに出かけた。
空気は柔らかく、冬の寒さを感じなかった。
帰宅して、朝食だった。
一昨日漬けた即席キムチ白菜。
わかめと豆腐と油揚げの味噌汁。
ポテトサラダ。
トマトにブロッコリー。
普段と変わらない食事を済ませた。
美味しかった。
1年の始まりを、特別な食事ではなく、普段と同じ食事で終えたことに、
ちょっと誇りを感じた。
いつものように暮らすという普段の行為が今年も始まっただけだ。
特別なことは何もない。

なぜ、あるある尽くしなのか

1年の始まりは、わたくしたちにとってどんな意味があるのだろうか。
紅白歌合戦でも見ていない限り、家の中は静かで平穏だ。
昨年の初めにNHKとの契約をやめていらいテレビを見ない生活。
そのおかげで、ひっきりなしに飛び込んでくる世間の目まぐるしい変化を感じることがない。
このおかげで、ないことへの、不安がなくなった。
我が家では、車もずっと以前に処分した。
外食へも、極力行かなくなった。
新聞もない。
冷蔵庫の中も、スカスカで風通しが良い。
着るものも、数年以上高いものは買っていない。
息子と娘のお下がりを喜んで着ている。
なくても困らないと言うより、ないほうが身も心もすっきりとする。
あるある尽くしの生活から、とっくにおさらばだ。
それでも、お正月やお盆には、行事のための準備をしてきた。
しかし、昨年度末、急に、しめ縄もお飾りもお供え餅も、おせち料理もいらないと思うようになった。
やるやらないは自由だから、やってもやらなくてもどうということはない。
それでも、お餅を食べない我ら夫婦には、お餅はいらない。
もちろん、おせち料理などへも、まったく食指が動かない。
そういうことで、夫婦仲良く、正月の準備はなしと決まった。

自分にとって1年の始まりは誕生日だ

1年で、自分自身にとって特別の日があるとしたら、それは誕生日だろうか。
この世に生を受けた日だから、限りなく意味があるはずだ。
誕生日が近くなると、ちょっと感傷的になる。
自分を生んで育ててくれた両親への感謝の気持ちがふっとよぎったりする。
これは、画一的な元旦とは全く違って、あくまで個人的だ。
しかし、この世は、個人的なことが中心。
喜びも悲しみも、全てが個人的な出来事だ。
だからこそ、誕生日は、特別な日でありたいと思う。
年賀状の代わりに、誕生日状はどうだろうか?
現在の様子を知らせるには、最もふさわしい日だ。

人が生きるには区切りが必要なのか

普通に生きることは理想だ。
ただ理想通りに生きることは難しい。
生活には葛藤があるし不安や悲しみもある。
どこかで、決断をしなければならないこともある。
意志が必要とされることが時にはある。
進学や結婚や離婚や親しい人との決別もある。
どこかで決断を強いられたり、自身が決断をしなくてはならないこともある。
そんな時、1年の始まりの正月は良い機会なのかもしれない。
ただ、老人には、そういう機会は必要がないだけのことなのかもしれない。
西洋では、クリスマスが、正月と同じように、人生の決断の日になることが多いような気がする。
自分の背中を押してくれる、そういう特別の日かもしれない。

除夜の鐘の苦情と信仰と日常生活

ここ数年、全国で除夜の鐘の行事が減ったそうだ。
そういうニュースが、暮になると流れてくる。
昔のように日本人の信仰が比較的厚かった時代には、「煩悩」という言葉も生きていたけれど、
今は信仰を持たない生活が一般的になって、「108の煩悩」など、どうでも良くなったのだろう。
除夜の鐘の音を、騒音だと思うことが、そのうち騒音公害と言われるようになるのかもしれない。
これも、正月に振り回されているように、世間に振り回されているように思えてならない。
こういう世間の流動に巻き込まれたくないというのが、本音である。
正月もバレンタインやハロウインと同じようになってしまうのかと思うと残念。
しかし、これも新しい形と言われればそれまで。

世の中に左右されない誕生日

誕生日は、大切にしたい。
誕生日こそ節目だ。
周囲に振り回されないで、生きてきたことに感謝したい。
1年で一番の日。
人知れず静かに誕生日を祝いたい。
今年の誕生日が始まった。

旗じいの話を最後まで聞いてくれてありがとう。
何も準備をしないで、正月を迎えたけれど、すごく新鮮だった。
何もないということは、意外に楽しいことだと気づいたよ。

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