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『パワー・オブ・ザ・ドッグ』感想※ネタバレあり

 本年度アカデミー賞・監督賞を受賞した本作は、ニュージーランド出身の女性監督ジェーン・カンピオンによる20世紀初頭のアメリカを舞台にした映画である。映画全体に妬み、嫉み、嫉妬、孤独感をまぶしたような作品で、作り手の性格の悪さがにじみ出ていて好感が持てる。(褒めてます。)
 カウボーイが登場する西部劇ではあるのだが、馬を使ったアクションシーンはないし、銃も出てこない。手垢のついた西部劇という設定なのに見たことがない仕上がりになっている。別に斬新すぎたり突飛なことをしているわけではない。(『カウボーイ & エイリアン』なんて作品もあった。)キャラクターにきちんと共感できる作品になっている。ただの西部劇ではない。何かを掛け合わせた様な作品だ。そうだ!昼ドラだ!『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は、西部劇と昼ドラのハイブリッドというムチャクチャなことをやっている映画である。

 1925年、アメリカ・モンタナ州。フィル・バーバンクは弟のジョージと共に牧場を経営していた。ある日、ジョージは未亡人のローズ・ゴードンと結婚する。しかし、フィルはローズに対して金目当てであろうと疑いだす。ローズとその連れ子であるピーターは、フィルに翻弄されていく。

 ベネディクト・カンバーバッチ演じるフィルは、粗野でデリカシーのない男として序盤は描かれる。令和の時代には中々共感しづらく、「男」の悪いところを煮詰めたようなキャラになっている。しかし、弟のジョージが未亡人のローズと結婚することになると状況が変わる。フィルは、ローズとその連れ子のピーターに対して嫌がらせを始める。そう、「嫌がらせ」だ。離れて暮らす自分たちの両親に手紙を書き、結婚に反対するよう告げ口をする。ローズが得意だというピアノに合わせてギターを演奏し、自分の方がうまいことを無言でアピールしてマウントを取る。ローズがストレスから隠れて酒を飲んでいるのをこっそりのぞき見していたり。廊下から聞こえるフィルのブーツの重い足音がローズ(と観客の)ストレスを倍増させる。足音の不快さはホラー映画のように感じる。
 西部劇に登場するカウボーイがもめ事を起こしたら、お互いに向き合い正々堂々とした早撃ちによる決闘を思い浮かべる。しかし、フィルはローズを陰湿にいじめる。正々堂々の欠片もない。
 話が進むにつれ段々とフィルのローズに対する仕打ちが「女々しく」感じてくる。私は初め、弟に対しての嫉妬心や女性への過度な恐怖心がないまぜになった行動であると解釈した。つまり、フィルのことを「童貞っぽいぞ」と感じていた。
 後半、実はフィルが同性愛者であることが示唆される。それを踏まえて、フィルを「女性」だと考えると、ローズへの接し方が何だかお姑さんの様に見えてくる。陰湿な追い詰め方や嫁のすることをのぞき見るなんて、ドラマに出てくるイジワル姑ではないか。フィルとローズの関係は、アメリカの西部を舞台にした嫁姑バトルだったのだ。そう思うと断然この映画が親しみやすくなる。

 フィルは、風呂に入るのを嫌う。客人が来ようとお構いなしにキツイ臭いを漂わせる。近くの池で水浴びをするシーンが出てくるのだが、フィルは体中に泥を塗りたくる。今でいう泥石鹸のような効果があるのだろうか。もしかしたら憧れの(愛しの)ブロンコ・ヘンリーも泥にまみれていて、同じ匂いになりたいのかもしれない。少し前に女子高生の様な匂いになれると話題になった女性用ボディケア商品「デオコ」を、おじさんたちが買いあさり品薄になるというニュースを思い出した。そういった需要があるらしい。
 他にも臭いを「バリア」としているとも考えられる。心の中に入らせないようにソーシャルディスタンスを相手に取らせる。だけども本当に拒絶したいわけではない。自分と同じ仲間や理解してくれる人がいれば心の中を開示したいと思っている。だから、それでも近づいて来てくれる人にはそっと心の中をのぞかせる。フィルにとってピーターはそれでも近づいて来てくれた人なのだ。(ピーターは別の思惑があったのだが。)
 「なんてめんどくさい奴なんだフィルは!」と思うと同時に、ものすごく気持ちがわかる自分がいる。どうせ俺なんかって思っているくせに少し距離をつめられたり、優しくされると途端に好きになってしまう。チョロい奴なんです。(たいてい優しくしてくれる人ってみんなに優しいんですよね。それを知ったときは愕然としましたけど。)

 フィルを「童貞っぽい」と書いたが、弟のジョージも中々の童貞っぷりを発揮していて良い。ジョージは両親と知事を招いた夕食会でピアノの腕前を披露して欲しいとローズに頼む。ローズは演奏していたのは昔のことだからとやんわり断るが、ジョージはサプライズでグランドピアノを購入したり(それが彼女へのプレッシャーになるとは考えず)徐々に外堀を埋めていく。ローズにとってただでさえ緊張するお披露目の場。外様の自分には味方はいない。そんな場所でまた別の緊張する任務を与えられる。ジョージはとにかくお嫁さんを自慢したくてたまらないのだ。童貞は、経験がないからそれまでに夢想した過度な期待や理想を相手にぶつけてしまう。たとえ「良きこと」でも相手にとっては「呪い」に変わる。ジョージは確かに良いやつではあるが、そのことが分からない。しかし、童貞っぷりはこのままで終わらない。
 ローズの演奏は失敗に終わり、夕食会は微妙な空気に包まれる。そこでジョージは声をかけたり、フォローをしたりしない。何もしない。ただ突っ立ってるだけだ。ローズがただただ不憫で仕方がない。どうしたらよかったのか私も答えは分からないが、モテるやつは気の利いたことするんだろうなと思う。身につまされる。こちらの過度な期待を相手に背負わせるのは良くない。

 フィルはいわゆるステレオタイプの「男性的」な嫌な部分と「女性的」な嫌な部分を持ち合わせている。それは別に彼が同性愛者だからどちらの部分も持っていると言いたいわけではない。私は同性愛者ではないが、フィルに共感する部分はある。
 フィルを「童貞っぽい」と書いたが、単に見当違いでしたということではない。彼の中にあるお姑さん感と私が思う童貞感との間に共通点を見出したことが重要であると思う。男性だから、女性だから、性的嗜好が違うから共感できないなんてことはない。そんな風に素直に思えるのは、彼が一人の嫌な奴として物語が終わるからだ。性的マイノリティなのだから彼に寄り添ってあげましょう的な説教臭いことはこの映画にはない。舞台が20世紀初頭なのでステレオタイプな男らしさは時代の風景として受け入れられるし、同性愛者に配慮するようなことがなくても自然である。LGBTQは免罪符ではない。もちろん不当な差別はなくすべきだ。ただ、過度な「良きこと」の押し付けは共感を得られない。私が(一部の)マイノリティ問題を目にする時に感じていた「素直に受け入れられないのはなぜなのか」が分かった気がする。童貞が大きすぎる期待や理想を女性に押し付けているのと同じように見えるからだ。特別な配慮をしないことがフィルへの共感を呼ぶ。それがこの映画の革新的な部分である。


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