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『希望のゆくえ』寺地はるな  を読んで



誰しもその人本人を見ているようで、
本当は自分の見たいものだけを
選び取って見ているだけなのかもしれない。

そう思った。



作中の希望は、
ある人から見れば憧れの対象
またある人から見ればただ都合のいい人
またある人から見れば………

同じ人物だからといって
周りの人が同じ印象をもつとは限らない。


そこにはある種、
「こんな人であってほしい」という
希望が込められているのかもしれない。
(だから希望という名前にしたの…?)

誰かに希望をもたれたり、期待されたりするのは
嬉しいことのような気がするけど、
実際その希望や期待が
自分の身の丈に合わないと感じるほど
大きいものだったとしたら
人はどうなるのだろうか?

「期待しないで」なんてなかなか言えないし、
「そんなことないよ」の謙遜の言葉も
そのまま正しく伝わるかどうか分からない。


だからそこからいなくなったのかな、と思った。
逃げ出したわけじゃなく、ただいなくなった。

居づらい場所からは自分で離れたっていいんだな。



大人は、生きる場所を選ぶことができる。
居たくない場所から自由に離れることができる。


いつだって、誰からだって、
ほしい評価やほしい言葉がもらえるとは限らない。

だけど、そんな他者の基準で生きるなんて
そんなもったいないことない。


その不自由さを手放すために
一人になって新しい環境に飛び出すのも
悪くないと思えた。


希望は誰かがもってるものじゃない。
誰かが照らしてくれるものじゃない。

希望とは自分自身のことなんだ。


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