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アメリカ西部キャンピングカーの旅【前編】ムースを探して in グランドティトン

耳元には、途絶えることなく続くプーン・プーンという羽音。半端な数ではない。周囲に幾つもの塊となって浮遊する蚊の群れは、霧のように見える。漂う塊の一つが事前演習でもしたかの様に、一糸乱れず連帯を組んでこちらに向かってくる。虫よけスプレーの鎧は全身にまとっているが、これほどの大群に効果はあるのだろうか。

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グランドティトン国立公園の南東部を流れるグロスベンター・リバー(Gros Ventre River) の畔。数時間前にパークレンジャーに教えてもらったお勧めスポットだ。時刻は午後8時を回っている。本当にムースは姿を現すのだろうか。両肩から背中にかけての痒みがぶり返してきた。昨晩、ティーシャツの上から、これでもかというほど刺された。吸血パーティーに参加していた蚊たちは、さぞ、腹を満たし満悦で夜の床に就いたことだろう。前日の教訓から、今日はウインドブレーカーを羽織っている。蒸れた肌が汗ばむ。蚊は汗の匂いに吸い寄せられて集まってくるという話を聞いたことがある。日本人の血は美味くないと伝えるすべはないだろうか・・・

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(グロスベンター・リバーの開けた場所でムースを探す)

7月のワイオミング。午後8時を過ぎても昼間のように明るい。太陽は一日の幕引きを惜しむように、あと一時間程度は地平線の上で輝き続けるだろう。静かに流れる川の両岸にはムースが好みそうな植物が生い茂っている。向こう岸に目を凝らす。暗くなる前に出てきてくれるのだろうか?

グランドティトンに来るのは。これで四度目になる。一度目はかれこれ30年前に独りで。二度目、三度目は家族と。五年ぶり四度目となる今回は、家内と二人でキャンピングカーの旅だ。四日前にロサンゼルス郊外にある自宅を発ち、道中一泊してソルトレイクシティーに到着した。昼過ぎに、事前予約していたキャンピングカーをピックアップ。途中、ボネビルソルト・フラッツに立ち寄ったあと、北上しグランドティトンへと向かった。キャンピングカーの機動性を生かして、ハイウェイ脇のレストエリアで一泊。二日前にグランドティトンに到着した。

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(塩湖が干からび残った塩の大地が果てしなく続く、ボネビル・ソルトフラッツ)


ワイオミング州の北西部に位置する野生の動物の宝庫、グランドティトン、イエローストーン国立公園は家内と私の大のお気に入りの場所だ。これまでにバイソンをはじめ、グリズリーベアー、ブラックベアー、エルクなど様々な動物を間近で見てきた。唯一お目に掛れていないのが、北米でムースと呼ばれるヘラジカだ。


現生するシカ科の最大種で、大きいものでは体重800㎏、身長は2.5ⅿにも達するという。ビジターセンターにある剥製は、カバの体に頭部と細長い脚をつけたような大きさだ。とにかくデカい。1990年台にはワイオミング州内に1万頭以上いたと言われているが、僅か25年の間に3,500頭まで激減。近隣のアイダホ州、モンタナ州、ユタ州でも同様の傾向がみられるそうだ。

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(出典:deviantart.comより。中央のがっしりした巨体がムース)


個体数激減には様々な原因がある。オオカミやグリズリーベアーといった肉食獣による影響は生態系の一部であり、やむを得ない気もするが、その他にも、極度の乾燥による森林火災や水辺の植物の減少といった気候変動が影響していると思われるもの。更には、キャロティッド・アーテリー・ワームという通常はミュールジカと共存する寄生虫によるもの。ミュールジカの体内では悪さを働かないこの寄生虫もムースにとっては命を脅かすものらしい。輪を書くように歩き続け死に至るという。我々人間も無関係ではない。自動車との衝突事故も多いようだ。

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今回の旅の大きな目的の一つは、数少なくなった野生のムースを自らの目で見ることだ。特に家内は、最後にこの地を訪れた5年前から、次回は絶対ムースを見たいと言い続けてきた。彼女の夢をかなえるためにも、蚊の大群に襲われて全身蚊まみれになろうとも、ムースを見つけ出さなくてはならない。そういう私も、過去に野生のムースにお目に掛ったことはない。こんな理由から、夕刻の川沿いで蚊の大群に襲われながら双眼鏡を覗き続けている。先ほどまで傍にいた家内。今は百メートルほど先に停めたキャンピングカーの中で小休止し、虫よけを塗り直している。

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(川沿いに停めたキャンピングカーの窓から)

一昨日、グランドティトンに到着後、ジャクソンレイク沿いのキャンプ場にベースキャンプを設けた。ベースキャンプと言っても、持参した蚊よけネットがついたタープを備え付けのピクニックテーブルを覆う様に設置。コールマンのランタンを吊し、二人分のキャンプチェアーをファイアーピットの横において完了だ。今回はキッチン、テーブル、トイレ、シャワー完備の快適なキャンピングカーがあるので、いつものようにテントを張ったり、コンロの準備をする必要はない。キャンピングカーが動くベースキャンプだ。キャンプサイトをセッティングした後は、湖からの涼しい風を感じながら夕食とワインを楽しんだ。午後九時を回っても周囲は明るく、ランタンを灯す必要はない。

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(キャンプサイト近くで優雅に草を食むオスのエルク)


翌朝、空は雨雲に覆われていた。彼方には、グランドティトン山から続くモラン山の頂。その手前には朝靄のジャクソンレイクが広がる。時間は午前7時を少し回ったあたりだろう。天気予報が当たり小雨模様だ。半そでシャツの上にウインドブレーカーを羽織り、キャンピングカーを後にしてから30分程度。湖の畔は小石に覆われており走り難い。コースを少し変えてみよう。熊対策用のペッパースプレーは右手で直ぐに掴めるように、ランニングベストの左胸のポケットに入れてある。周りに人影はない。林の中で物音がする。ドキッとし、音の方向に目を向けると、シカが逃げるでもなく、悠々と草を食んでいる。標高2,000ⅿを超える高地の酸素は薄く、少し息苦しいが、霧雨が心地よく体を冷やしてくれている。

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天気予報では、今日は天候が不安定だが、明日以降は晴れが続く。雨が止めば朝晩ムースを探すこととなる。キャンピングカー内で朝食を済ませ、天気が回復するまでビジターセンターにでも行くことにしよう。

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午後の強い日差しがジェニーレイクの湖底の小石を照らし出している。水は驚くほど澄んでおり、名も知らぬ小魚の群れが行き交うのが見える。雨は思いのほか早く止んだ。北の空に怪しい雲が見えるが、暫くは大丈夫だろう。二人乗りのカヌーの前には、グランドティトン峰と鏡のようにそれを映す湖面が佇んでいる。静まり返った針葉樹の森からは鳥の鳴き声が聞こえる。先ほど、湖畔で子熊二頭を連れたママ・ベアーに遭遇した。三頭のブラックベアー追うように湖畔に沿ってカヌーを漕ぎ続けたが、それ以降、姿を現を見せることはなかった。森の奥深くに入ってしまったのだろう。岸から離れるように船首を北に向けた。

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(雨上がりのジェニーレイクでカヌーを楽しむ。湖面は波ひとつない)

ワイオミング北部を源流とするスネークリバー。生まれてすぐジャクソン・レイクに流れ込む。その清流は暫し湖を漂った後、南東部のダムの堰を超え、蛇のようにくねりながら南に向かう。その後、西方向に流れを変え、アイダホ州、オレゴン州を横切って太平洋で大海の一部となる。

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ムースが頻繁に出没すると言われるオックスボウ・ベンドは、ダムのすぐ下流に位置しており、堰で水量がコントロースされているため、殆ど流れがない。スネークリバーは、ここで大きく進行方向を変える。水面にはくっきりとした輪郭のモラン峰が写る。静かな川の畔には植物が生い茂っている。ムースはこれらの水辺の植物のみではなく、水底にある苔のような植物も食べる。あの巨体で数メートルの深さまで潜水することもあるそうだ。

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(オックスボウ・ベンドでムースを待つ大勢に人たち。川の流れは殆どない。)


夕闇迫るオックスボウ・ベンド。周囲には大型の望遠鏡や50センチもあるような望遠レンズを付けたカメラを抱える人々。皆のお目当ては、ただ一つだ。全身にまといつく蚊を追い払いながら、今か今かとムースの出現を待つ。1時間。2時間。虫よけスプレーを施していないテーシャツの上に蚊が群がる。薄闇が水辺を覆い始めた。残念ながら、今日の収穫は数えきれないほどの虫刺されだけになりそうだ。

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(アンセル・アダムスもどきの白黒写真。スネークリバー・オーバールックにて)

アンセル・アダムスは、ヨセミテ渓谷の白黒写真などでよく知られている写真家であるとともに、登山家、そして生涯、自然保護に情熱を燃やした活動家でもある。今日の朝食は、彼の代表作でもあるグランドティトンをバックにスネークリバーを撮影した、スネークリバー・オーバールックの駐車場だ。キャンピングカーの窓越しにはグランドティトンの頂が見える。なんという贅沢だろう。絶景を眺めながらのコーヒーの味は格別だ。

先ほどまで、昨晩に続いてオックスボウ・ベンドでムースの出現を待っていたが、また空振りに終わった。家内と相談し、朝食後はムースが頻繁に出没すると言われるルートをマウンテンバイクで走ってみることにした。

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(グランドティトン峰を眺めながらの贅沢な朝食)

ビジターセンターがあるムース・ジャンクションと、スキーリゾートがあるグランドティトン・ビレッジを結ぶ全長8㎞ほどのひっそりとした林間ルート。5年前来た時には、僅かの差でムースを見損ねた。途中、未舗装部分もあるためキャンピングカーでの乗り入れは禁止されている。こんな時マウンテンバイクは強い味方だ。

野生動物の多くは早朝や、夕暮れ時に食物を求めて活発に活動する。すでに午前10時を回っている。今日はムースはおろか、大型の野生動物に遭遇する確率は極めて低いだろう。それでも、氷河に削られて作られた峰々をバックに風を切って走る喜びは何物にも代えられない。

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ローレンス・ロックフェラー・プレザーブという施設が林間ルートの中間地点付近に、人目に触れるのを避けるかのようにひっそりと佇んでいる。ビジネスで名を馳せた、有名なロックフェラー家の一員であるローレンス・ロックフェラーが、熱心に行っていた自然保護活動の一部として始めたものだ。施設内には、ユニークな方法で自然保護を訴える展示物をはじめ、ハイキングルートなどがある。マウンテンバイクを駐輪スペースに置き、展示を見みた。その後、よく整備されたトレイルを歩きフェルプス・レイクに足を延ばしてみることにした。往復6㎞程度の周回ルートだ。

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木漏れ日が差し込むマイナスイオンで満ちた渓流沿いのルートを上り詰めた先で、フェルプス・レイクは青々とした水を湛えていた。湖畔では、年配の女性パークレンジャーがハイカー達と歓談していた。軽食を摂り、湖に足を浸し涼んだ後に帰路についた。しかし、周遊コースであるはずのルートが数百メートル先の川辺で行きどまりになっているではないか。渡るための橋はない。仕方なく、先ほどのパークレンジャーに尋ねるべく、来た道を引き返した。

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再び湖畔に着くと、先ほどの年配のパークレンジャーが、子供たちが浴びせかける無邪気な質問に丁寧に答えているところだった。小学校高学年と思しき男の子がレンジャーに尋ねた。「いつ、どこに行けば、クマやムースを見るられるの?」。レンジャーが答える。「熊は難しいわね。いつも動き回っているから。でもムースは比較的簡単よ。日の出や日没のころにグロスベンター・リバーに行くとかなりの確率で見られるわよ」。道に迷って引き返したお陰で、思わぬ情報を得ることになった。子供たちの質問が終わるのを待ち、レンジャーに手持ちの地図上で場所を確認してもらい、帰り道を確かめ、喜び勇んで湖からの帰路に就いた。

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(帰路で見かけたキツネ。可愛い顔をしている。このあとノネズミを捕獲して食べた。)

夏の太陽が西に傾き始めたころ、グランドティトンの南東を流れるグロスベンター・リバーを目指しキャンピングカー走らせていた。車内は相変わらずうるさい。路面の凹凸に合わせて、ガタガタと音を立てる。掘っ立て小屋が、強風に煽られて、ギシギシ音を立てているような感じだ。走ることより、駐車して中で快適に過ごすことを目的に作られたモノなので致し方ない。ガタガタ音をバックミュージックに、まだ見ぬムースを思い浮かべ否が応でも期待が高まる。


ゆっくりと水が流れるグロスベンター・リバーの両岸には背丈ほどの植物が生い茂っている。いかにもムースが好みそうなところだ。川に沿った道を、のんびりと走りながら動くものを探す。行きかう車は殆どない。

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途中、一台の大型キャンピングカーが停まっていたが、とりあえずやり過ごし前に進んだ。数キロも進むと川から少し離れてきた。狭い道を何度か切り返しをしてUターン。先ほどの大型キャンピングカーまで戻った。ムースを探しているのは間違いない。何か見たかと問うたところ、少し前に近くで親子ムースが草を食んでおり、あっちのほうに歩いて行った、と川の上流を指さした。少し高い木が茂っており、ここからは何も見えない。一目散に、しかし出来るだけ音をたてずに家内と二人で駆けた。


前方に茶色の物体が見える。前を歩く大きな姿、小さな姿がそれに続く。距離にして30メートルほどだろうか。親子のムースだ。「わ~」、家内が抑え気味の叫び声を上げる。喜びもつかの間、親子の姿は背丈の高い草に遮られた。

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(藪の中に姿を消す親子のムース)

動く影は見えるのだが、姿をはっきり見ることはできない。根気よく待っていると突然、子供のムースが草陰から顔を出した。こちらを覗いているようだ。なんと愛らしい顔だろう。草を食んでは、頭を上げてこちらを見、また草を食む。数分後、愛らしい長い顔は大きな影を追って藪の奥に消えていった。

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(藪の中から時折こちらの様子を伺う子供のムース)

親子のムースを見て興奮する家内。それでもやはり、でかい角のオスのムースを見てみたい。このあたりにムースがいる事は分かった。あとは日暮れまで探すのみだ。


蚊の羽音に悩まされ、霧のような大群に襲われること半時間。対岸に茶色の塊を発見した。初めに見えたのはこぶのような背中だ。そして、大きな角。オスのムースだ。間違いない。ヘラのような形をしたムース特有の角がはっきりと見える。双眼鏡を覗く。立派な体格のオスのムースの姿がはっきりと見える。

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突然、振り向いてこちらを見た。夢に見たムースは、なんだかマヌケな顔をしている。思わず笑みがこぼれる。再びこちらに顔を向けたムースとレンズ越しに目が会ったような気がした。隣には、まとわり着く蚊を気にもせず双眼鏡を覗く家内。

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10分、そして20分。ムースの食欲は旺盛だ。何処へ行くでもなくただひたすら草を食んでいる。その間も蚊は容赦してくれない。今夜は二人でムースを見た感動の余韻に浸りながらムヒ(かゆみ止め)の奪い合いになりそうだ。

翌朝も早起きして、グロスベンター・リバーの畔で「柳の下の二匹目のどじょう」ならぬ、「水草の脇の四頭目のムース」を狙ったが、残念ながら姿を現すことはなかった。

余談になるが、英語でMooseの複数形はMoosesではなく、単数形と同じMooseである。それというのも、「ムース」の語源が嘗てアメリカ北部からカナダの広いエリアに住んでいたネイティブ・インディアンのアルゴンキアン族の言葉に由来するからだそうだ。

By Nick D.

ワンポイント・アドバイス:

ガイドブックなどでは、ムースを見るならオックスボウ・ベンドとあります。今回、私たちも二日に渡って大勢の人たちとオックスボウ・ベンドでムースの出現を待っていましたが、期待外れの結果となりました。野生動物のことなので、ここで絶対見られるというスポットはありませんが、機会があれば、パークレンジャーお勧めのグロスベンター・リバーにぜひ行ってみてください。場所はこちら:

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