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鬼ごっこは、書くことの責任と覚悟

瀬戸内寂聴、井上荒野、江國香織、角田光代という豪華な顔ぶれでお酒を飲み、祇園に繰り出す映像を観たことがあった。そのときの寂聴さんは、かつて愛した井上光晴さんの話しをよくしてた、娘である荒野さんの前で。

荒野さんが、そのときのことを心を揺さぶられた、本当に好きだったんだな、なかったことにしたくなかったんだな、これは私が書いて残さないとダメだ、と決心したという。

寂聴さんが笑顔で光晴さんのことを話しているの、私もじーんときて涙が出てきました。皆で笑い合っているのに、寂聴さんの愛の深さが伝わってきてせつなくなって。

生きることは、愛すること。それ故に自らも傷つき相手も傷つけ罪を背負って生き切った瀬戸内寂聴さん。寂聴さんと井上光晴の妻、を彷彿させる2者の視点で荒野さんが書いてます。

あちらにいる鬼  井上荒野

1966年、講演旅行をきっかけに男女の仲となる二人の作家、白木篤郎と長内みはる。繰り返される情事に気づきながらも心を乱さない篤郎の美しい妻、笙子。愛と<書くこと>に貫かれた人間たちの生を描ききった傑作。

朝日文庫

篤郎がとんでもない男だ。嘘つきで女癖がわるい。みはるの他にも何人もいる。みはるはそれを承知で付き合っているし、笙子は、夫の女性関係をないことのように暮らしている。

小説であり創作であっても、みはるが寂聴さんに見え、みはるに心を寄せてしまう。篤郎(光晴)、笙子(妻)の実像を知らないせいもあるだろう。

みはるが出家という形で生きようとした潔さ。

男のことを繰り返したって、同じ。もっと生きたいから、人生を充実したいから。

瀬戸内寂聴

出家して、自由になったみはる。

笙子は、何もしないことが生きていくための方法で、愛し方だ。

私は篤郎と別れない。別れられないのではなく、別れないのだ。

笙子

愛人と妻の愛し方、こんな形もある。彼らは同じどうしょうもない男を愛してしまった戦友のようなシンパシーも感じられます。

鬼は、誰なんだろう。鬼はどこにいるのだろう。

立場によって鬼は、違ってくるし、一番の鬼は自分の中なのかもしれない。みはるも、笙子も、篤郎も、みんな心に鬼がいて。みはるの鬼は、出家でいなくなったのかな。みはるの出家で、笙子の鬼も、篤郎の鬼もいなくなったのかな。

娘としての井上荒野でなく、小説家の荒野も潔いと思いました。家族を書く、自分の見たくないものを書く、作家瀬戸内寂聴に通じるものがあると思いました。

スキャンダルや、自分の感情でなく、創作。

書くことの責任と覚悟。

寂聴さん、ご両親へのリスペクトを感じました。

百日草さんも以前、感想文を書かれてました。「愛するの反対」というのが興味深かったです。

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