見出し画像

お父さん


みなさんは、自分のお父さんのことについて

どのくらい知ってますか?


愚問でしょうか。



うちの両親は私が4歳になってすぐ離婚をしたので

私は自分の父親について

数回の電話でのやり取りで聞いた声や

母親から聞いた、わずかな情報

数え切れることくらいのことしか知らないまま大人になってしまいました。


それなら、ほとんど覚えていなくて

忘れてると思われることもありますが

私にとって、たった一人の父親。

小さい頃からも、学生の頃も、大人になっても

忘れたことなどなかったです。


数枚の写真の中の顔を思い出しながら

ずっと私の胸に。



父との思い出。

覚えているのはまだ2~3歳のころ。

母と父の間で川の字になって寝ていたこと。

父がガラスの破片で手を切って血が滲んでたのを

私が舐めてあげたこと。


理由も知らないまま、ある日の夜

家族でどこかの駅にいて

銀紙に包まれたバニラのアイスをみんなで食べたこと。

それが父との別れの夜になったとは知らずに

寝台列車で島根から名古屋へとやってきました。


どうして自分がここへ連れてこられたのか

またすぐ島根の家に帰るものだと

ここでずっと暮らすとは思わなかった。


それから父と、電話で数回話しました。

「今度これ送るけーな。」

今でも耳に残る父のあの言葉が

自分の本当の故郷の言葉のような気がしてる。


島根県で生まれて、名古屋で育ったけれど

両親はもともと秋田県の人で

そのせいか、言葉も食事もどこか名古屋に馴染めない自分がいました。


それはまるで小さい頃テレビアニメで見た

「アルプスの少女ハイジ」で

アルムの山から突然フランクフルトの町中に連れてこられたハイジのように

島根の山や森から突然名古屋の錦3丁目という超都会の歓楽街に連れてこられた私は

毎日のように雑居ビルの屋上へ上って

空の遠くに島根の景色を思い浮かべて、帰りたい、帰りたいとこっそり泣いて

家族の前ではヘラヘラ笑っていました。


離婚したあとの生活は本当に大変で

いつも悲痛そうに嘆いてばかりの母を、慰めることも何もできなくて

おどけてみせて笑うことしか出来なかった。

どうしてここへ来たのか、いつまでここにいるのか、

聞きたいことも、言いたいことも全部飲み込んで、

本当の自分を隠して作り笑いをすることを4歳から始めてしまったんです。

その癖は今でも沁みついてて、全然平気じゃなくても、
平気そうに見えてしまう?見せてしまう?
やっと平気じゃないことを言えた時には
もう手遅れなほど心身ともにズタボロで
立ち直れるまでに何年もかかることも。
これでも、大分人に言えるようになったと思う。
日々訓練。
もっと素直にただ助けてほしいって言えたら
どんなに楽だろうと分かってても、どうしても言えない
言えない思いがあるから、歌が生まれることも知った今も
悩みながら生きてます。



母は父のことを憎んでいると、父の良くないことを聞かされました。

その度に複雑な思いになる。


私の半分はその父でできてるから。


どんな人だろうと、私のたった一人の父。

たいせつなたった一人の私の父。



時々かかってきた父からの電話も

数年で途切れてしまったけど

それでも、電話越しのあの声は今でも忘れない。


どこかで生きてるかな

会いたい


ずっとその思いがあった。


でも子供だった私に何もできないまま時間だけが過ぎる


私が18歳の時に兄が亡くなった。


父には何か報せとかいくんだろうか、そんなことも考えた。


大人になって、インターネットが普及しだして

私は父の名前を調べまくった。

どこかで生きてるか、今どこでなにをしてるか

知ってどうするとか、そんなことはどうでもよかった。


なんの手がかりもないまま、ただ時間だけが過ぎていく。


そんなある日、ふとしたことから、離別した両親の生死を子供からは調べることができる

ということを知った。


いよいよ父の今を知ることが出来るかもしれないと思った時に

少し恐怖があった。


もしも離婚後、父が新しい家族や、私に別の兄弟がいたらとか

例えば、今、父に借金などがあって、父のことを調べて

そういった問題に巻き込まれてしまったらどうしようとか


勇気がでないままモヤモヤと数年が過ぎた。


それでも、どうしても父が今どうしているのか知りたくて

何度も役所などへ行って調べ始めた。


思ったよりも難航した。


数カ月かかって、やっと父の今がわかった。


生きてた。


生きてた。



欲深い私の、欲はさらにかき乱される。


向こう側が何も見えない目の前に立ちはだかる大きな扉に

小さな穴があいて。光が差し込んだら

覗いてみたくなる


そんな気持ちだった。



意を決して、思い切って父を訪ねてみることにした。

新幹線に乗って、初めて訪れる街。

住所が分かってるから、タクシーに乗ってしまえば着くだけ。

簡単に考えていた。


ところがタクシーで住所付近でナビが案内を終了。

数年前に区画整理された関係でここまでしか場所が出ないとのこと。

それじゃ、あとは自分で探しますと言って降りた。


知らない街。

細い用水路。

畑もあるのどかな街。


スマホのナビに住所を入れても出てこない。

困った・・・。

仕方なく、手あたり次第に

一件一件、聴いてみることにした。


不思議なことに30件ほどの小さな部落だというのに

街の人も、父の住所や名前も分からないという。

ただ、間違えなく近くで、その辺だよとだけ。


老舗っぽい畳屋さんや、郵便局でも聞いてみたが

みんな同じく、もうその辺ですよと言うだけ。


この住所が一軒家なのか、アパートなのかもわからない。

個人情報がうるさいご時世のせいか、表札が出ている家も少ない。

歩けど歩けど、どうしてもたどり着かない。


そこからタクシーですぐのところに

父が以前住んでいた住所もあり、そっちへも行ってみた。

そこは社宅のようなアパートで、父の苗字があった。

思い切って訪ねてみると、外国人労働者の方が出て

父のことを聞いてみたが知らないと言われた。

防波堤に行って海を見ながら途方に暮れる。

会わない方が良いってことなんだろうか。



仕方なくタクシーを呼んで帰ることに。

偶然にも行きと同じ運転手が迎えに来てくれた。


誰か探してるのかと聞かれて、事情を少し話すと

何とかして会わせてあげたいと言って、

自治会とかにも連絡してみたらなどアドバイスをくれた。

また、必ず探しにおいでよと言われ名古屋へ帰った。


会えなかった。

会えたら泊る予定でいたから

重たい荷物を抱えて炎天下の下、鞄のベルトの跡が

肩に日焼けたくらい歩いて歩いて探したけど

会えなかった。

また、モヤっとしたまま、いつもの生活へ戻って

翌年のある日、会社へ向かうはずで出かけた足が

その日、なんだか無性に今日、今、父に会いにいかなくてはという衝動にかられた。


理由も根拠もない。

会社に休みますと連絡をして

そのまま再び新幹線へ飛び乗った。


去年、タクシーの運転手さんに自治会と言われたことを思い出して

まずは父の住む街の役所へ行った。


事情を話すと、区画整理により

この町が数年前に西と東に分かれたことを聞かされた。

そしてそんな中で、西とも東とも付かない小さな区画があり

父の住所がまさにそこだった。

そのためナビなどでも出てこず、

住民の方でもよく分からない方が多いそうで。


役所も守秘義務があるので詳しいことまでは

言えないけれど、ヒントをいくつかもらって

そこからは謎解きのように、父のことを読み取り

再びタクシーを呼んだ。


この町のタクシーの運転手さんは本当に親切で

またいろいろと事情を聴かれ

ここから先は自分で探しますと言うと

「これ食べながらがんばって探してね」と折り紙で作られた小さな籠に

飴ちゃんが2つ入ってるのをくれた。


「ありがとう!」とお礼を告げて

去年の記憶が生々しい街を一歩一歩確実に歩く。


目星を付けていた所へ来ると

知ってる名前が手作りの表札に書かれていた。



父に会えなくなってから37年が経っていた。

この扉の向こうに父はいるだろうか。


いろんな思いがよぎる。

何度も深呼吸をしてチャイムを鳴らしてみた。


少しして小さなおじいちゃんが出た。

杖をついて、腰の曲がったそのおじいちゃんに

私の名前を言った。


父だった。

生きてた。


歳をとって、おじいちゃんになった姿の

紛れもない、父だった。


上がってお茶を入れてもらう。

手帳に小さい頃の写真や父の写真が挟んであったので

それを見せた。


でもそんな写真も要らないくらい

どうしようもなく私の顔は父にそっくりだった。


母にも小さい頃からずっと言われてた

私はお父さん似だって。



父はまず聞いてきた。

母は元気か。

姉は元気か。

最後に兄は?と。


兄が27歳で亡くなったことを告げると

父は一度飲み込んでから「…やっぱりか」と言った。



父は1歳の頃に養子に出されて、

お坊さんの跡継ぎをしようとしていた。


途中で離婚したこともあったり、いろいろ職を転々をしたが

今はご依頼を受けては身寄りのない亡くなった方のお経をあげていると聞いて

自宅には自分で作った小さな仏壇があった。


父の話では数年前に夢で

兄が救急車で島根まで運ばれて

「お父さん!お父さん!お父さん!」と3回自分を呼んだと言う。

慌てて駆けつけると、救急隊の人が、「この子は脳が死んでしまってるから

もう助からないです」と言われたと。

その夢のことを今の奥さんにも話して、日にちこそ違ったけれど

死んでしまったのではと思い、その日からずっとお経をあげていたと。


私もそのことを告げる目的もあって来たことなど話した。


それからは37年分の答え合わせのような話だった。


私が小さい頃から絵を描いたり、モノを作ることが好きだったり

兄が音楽が好きで、自分も今歌を作って歌ってることを話すと

兄の影響だと思っていたそれらは、実は全部父の好きなことだったようで

父の描く絵、作るものは、まるでもう一人の自分が作ったかのように

似たようなところがいっぱいだった。

そして、父も昔歌が大好きだったこと。

島根にいるとき、小さかった私はよく父に

「大きくなったら歌手になるけん」と言っていたこととか。

近所の神社で見たヤマタノオロチのお祭りのこと

最後の夜にみんなで食べたバニラアイスのこと。


私は小さい頃のことをよく覚えていたが

父もその頃のことも、父自身が小さい頃のこともよく覚えていて

昔のこと、これまでのこと、いろいろ聞かせてくれた。

そして、私がずっと覚えてたことが幻想などではなく

父も覚えている現実だったことが証明された。


離れ離れになってから、どうしても会いたくて

父も何度も役所や弁護士やあちこちに問い合わせたけど

親から子供を探すことが法律上許されていなくて

子供からいつか訪ねてくるのを待つしか出来ないんですよと言われてたということ。


相撲番組なんかを見ては、名古屋場所の時

ひょっとして私や母が見に行って映ったりしないか

今でも食い入るように見ていたということ。


数年前に再婚して、今の奥さんはとても優しい人で

父がずっと私たちに会いたがってることも

理解して、ずっと話を聞いてくれてるということ。


父もまた、私たちのことを忘れたことなどなかったと。

よく訪ねて来てくれたと。


生きてて良かった…と泣きながら何度も言ってくれた。


その一言にどれほど長い年月と重みがあるか

私の方こそ、父が生きててくれて本当に、本当に良かった。



それから何度か父の所へ行って

父の車を私が運転して、あちこちへ出かけた。

カラオケ喫茶なんかにも行って、父の前で歌った。


歌には厳しく

マイクはトの字に持てとか

歌は語れ、語りは歌えなど

父の専門は演歌だけど、いろいろ教えてくれた。


得意のDIYで自宅に棚をつけたり

きりたんぽ鍋を作ってみんなで食べたりした。


父の夢を叶えてと言われた。

なに?と聞くと

お前を小さい頃のように膝に乗せて抱いて

コーヒーを飲みたかったんだと言う。


リウマチや、脊椎の病気で杖が無いと歩けない父だったから

少し怖かったけど、

椅子に座った父の膝に軽く腰かけて

父が大好きなコーヒーを飲む。


ただそれだけ。


37年越に叶ったと喜んでくれた。



父と再会出来て、私は初めて父の誕生日を知った。

父はお坊さんになるために改名をしていたので

父の本当の名前も初めて知った。


父のこと、そんなことも知らないまま大人になってた。


中学生のころから作詞作曲をしてきた私が

中学生の頃、父を思って作った曲もあるけど、


空想でしか描けなかった父の曲が

また出会えたことで、新たな曲も生まれさせてくれた。


「バースデーケーキの代わりに」

https://youtu.be/HKyRL5G-PcQ

父の誕生日を知って、自分の娘や、知り合えたすべての人へ向けて

その誕生や、ただ生きてることがどれだけすごいことかを

生まれてきてくれて 生きててくれて

私と出会ってくれて本当に本当にありがとうという気持ちを込めて作りました。




「お父さん」

https://youtu.be/-h1dS2KpcqE

父と再会出来て2年。

父は人生で3度目の心筋梗塞で倒れて

喋ることも、食べることも出来なくなり


点滴から栄養を摂るだけ。


それも限界が来て、次に何かあった時には

もう延命治療もしない方向で。

そんな話を本人の意思も聞くことも出来ないまま

お医者様としてから7カ月

もう、覚悟してくださいと言われ駆けつけた病院のベッドで

殆ど意識も無い状態の父の耳にイヤフォンを差し込んで

この「お父さん」という曲を流したら

父が目を開けて、言葉にならない声で唸って

私の右手をもの凄い力で握りしめてくれた。


「お父さん、ありがとう、大好きだよ。」

最期にそれが言えて良かった。

本当に良かった。


本当の私は何がしたいのか、最近よくわからなくて

全然進めていない自分に苛立つことがある。


こういう思いを抱えて音楽をしてるから

なかなか周りの人と思い入れの強さが合わなくて難しいこともある。

でも一人の力じゃ限界があって。


きっと本当は兄とバンドを組んで

父の前でライブがしたかったんだろうな。


それは分かってる。

もう叶わないことも、わかってる。


そんな過去にばかりしがみついてちゃいけないことも。


父が亡くなって一年が経って

ようやく父の死と少し向き合えた。

兄のことも。

兄のことを父に話せてから、気のせいかも知れないけど

ずっと重く抱えていた何かが少し楽になれた。


その時に作った歌。


辛いとき、悲しいとき、いつも音楽に救われてきた。

大好きな音楽の先生の受け売りだけど

音楽には、医学や化学では説明できない力がある。

音楽はそんなサプリメントみたいなものだと。


私の作る歌もいつか誰かにとって

そんなサプリメントになれたらなと思う。


例えばこの曲が

大切な人を亡くした誰かの心に寄り添えたらうれしい。

「夢のつづき」
https://youtu.be/oG4I0oEeCAs

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?