【人物史】ソ連最後の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフ
1.はじめに
2022年8月30日、旧ソ連最後の最高指導者を務めたミハイル・ゴルバチョフが91歳で亡くなりました。ゴルバチョフは硬直化したソ連を建て直そうと改革を行い、冷戦を終結させ、ノーベル平和賞を授与された人物であり、当時の日本や欧米では「ゴルビー人気」が高まりました。今回は、最後のソ連最高指導者としてのゴルバチョフについて見ていきたいと思います。
2.出生から最高指導者就任まで
ミハイル・ゴルバチョフは、1931年、ロシア南部のブローポリでコサック農民の子として生まれました。当時のスターリン体制下で行われていた集団化とそれに伴う飢饉の打撃を受け、一族にも被害者が出ていました。ゴルバチョフは当時の農村の様子を「農奴制とどれだけ違うのか」と回想しています。
ゴルバチョフはモスクワ大学法学部を卒業し、その後は地元の農村で党官僚を務めていました。その頃はちょうど、ニキータ・フルシチョフによって、それまでの過酷な弾圧が取りやめられ、一定の体制改革と自由化が図られた「雪どけ」の時代でした。この頃に青年期を過ごした人々は「六十年代人」と呼ばれ、ゴルバチョフを始め、ペレストロイカの担い手となりました。
1970年代以降、共産党政治局員の平均年齢は70歳前後に達し、能力もない人間が20~30年も権力の座に就く「老人支配」が常態化していました。そうした中で、ゴルバチョフは農業担当書記として注目を集めるようになり、若手の改革派として頭角を現し始めました。彼を重用したアンドロポフは書記長就任した翌年に亡くなり、その跡を継いだチェルネンコも同じくわずか1年で死去しました。そして、その後任として54歳という若さで、ゴルバチョフが党書記長に就任しました。
3.ペレストロイカの始動
1970年代以降、ソ連は停滞の時代を迎えました。政治指導者や官僚の人事が安定した結果、人事の流動性が乏しくなり、腐敗の蔓延、規律弛緩をもたらしました。農業は、国防費を上回るほどの補助金が投入されながら生産性は向上せず、アメリカなどからの穀物輸入が常態化しました。生活水準は向上しながらも、食料品や日用消費財は安価で手に入り、逆に自動車やアパートなどはいくらお金があっても入手できないという状況は、労働意欲の減退を招きました。
ゴルバチョフは、当初アンドロポフにならい、人事の刷新、反アルコール・キャンペーンなどの規律引き締めを行いました。この頃から「ペレストロイカ(立て直し)」という言葉が使用されていましたが、まだ意味は不明瞭であり、これが特別の意味を持つようになるのは、1986年4月26日におきたチェルノブイリ原発事故以降でした。
原発事故による直接の犠牲者は31名、半径30㎞以内が汚染区域に指定され、13万5000人が強制的に退避させられました。事故の発生をソ連政府が認めるまで3日もかかり、事故の原因、規模などが明確にされなかったため、各国から批判が沸き起こりました。ゴルバチョフはこの事故の反省から、本格的な「ペレストロイカ」を推進し始めました。
4.経済改革と政治改革
1988年1月、「国営企業法」が施行され、国営企業全般に市場の要素の導入と企業の自主性拡大を軸とする経済改革が始められました。しかし、市場の導入は失業・所得格差の拡大などを伴い、特に価格の自由化は、これまで低い水準に抑えられていた価格の値上げを招き、国民生活を圧迫しました。さらに、原油価格の急落によって89年には経済成長率はマイナスに転じ、商品不足と買いだめが横行し、商店の棚から商品が姿を消す「商品飢餓」というべき事態が発生しました。
ゴルバチョフは、企業の自立化を促すためには政治改革が必要であると考えるようになりました。1989年3月、「すべての権力をソヴィエトへ」というスローガンのもと、それまでの形式的な選挙ではなく、複数候補で競争的なソ連人民代議員大会の代議員選挙が行われました。さらに翌90年3月にはソ連憲法第六条が改正され、共産党の指導的役割の規定が削除され、名実ともに複数政党制が導入されました。
同時に、大統領制が導入され、ゴルバチョフが初代大統領に選出されました。しかし、新設の大統領を支える国家機構はまだ十分に整備されておらず、全国隅々まで党組織を持つ共産党を排除して改革を実現することは望めませんでした。
5.新思考外交
1970~80年代、ソ連が西側との経済競争に敗れたことは明白となっていました。特にアメリカとの長期にわたる軍備拡張競争は、ソ連の財政に大きな負担となっていました。このため、ゴルバチョフは「新思考外交」を唱え、平和共存を再確認し、相互安全保障を実現する必要を訴えました。
1985年秋、ゴルバチョフは一時的一方的に核実験を停止し、翌86年1月には、ヨーロッパ配備の米ソの中距離核戦力(INF)の全廃を提案しました。米ソはこの提案を出発点に交渉を重ね、87年12月に地上発射型の中距離核戦力を全廃するINF条約に調印しました。
「新思考外交」は全方位に進められ、アフガニスタンからの撤退、中国との関係改善、韓国との国交樹立も実現しました。さらに、東欧諸国には改革を促すとともに、ソ連の介入はないことを約束し、その結果、89年夏から年末にかけて各国で体制転換が相次ぎました(東欧革命)。こうして、同年12月にはゴルバチョフ、ブッシュの米ソ首脳により「冷戦終結」が確認され、この功績により、翌90年にゴルバチョフはノーベル平和賞を授与されました。
6.連邦体制の動揺
ゴルバチョフは、ソ連社会の歪みや問題を明るみにし、批判を奨励するために「グラスノスチ(情報公開)」を推進しました。これにより言論活動が活発化しましたが、経済改革がうまくいかずにむしろ状況が悪化したことで、ゴルバチョフに対する国民の不満は著しく高まり、公然の批判がされるようになりました。また、「新思考外交」によって東側陣営が崩壊し、「冷戦に敗北した」という意識を生み出されたことで、ゴルバチョフの立場と権威を弱めました。
「グラスノスチ」は、それまで抑えられていた民族的な対立や緊張も表面化させました。特に独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づきソ連に編入されたバルト3国はその急先鋒となり、1988年にエストニアが、1989年には続いてラトヴィアとリトアニアが「主権宣言」を行いました。これは連邦法に対する共和国法の優位を主張するもので、連邦の中心であるロシアをはじめとする他の共和国内でも、次々に主権宣言がなされました。
この事態に対し、ゴルバチョフは連邦と共和国との関係を規定する「新連邦条約」を締結し、連邦を維持しようとしました。1991年3月に行われた国民投票において、連邦の維持に関しては全共和国で賛成多数となりました。
7.失脚からソ連解体へ
連邦の権限を大きく削減する「九+一合意」が、連邦政府や議会の了承を得ずに交わされたことに対し、連邦政府内の要人たちは強い不満を示しました。8月20日、モスクワで保守派によるクーデターが起き、クリミアで休暇中だったゴルバチョフは拘禁されました。
この「8月クーデター」は、ロシア共和国大統領ボリス・エリツィンらが徹底抗戦する姿勢を示し、モスクワの市民もこれを支援したため、失敗に終わりました。「連邦」と構成共和国である「ロシア」の立場が逆転し、「別の国に戻ってきた」と言われるほど、ゴルバチョフの発言力は低下しました。ゴルバチョフは党書記長を辞任し、ソ連共産党に解散命令を出しました。
8月クーデターを受け、ウクライナを皮切りに、ロシア以外の共和国が次々と独立を宣言しました。連邦の権威の低下は明白でしたが、それでもゴルバチョフは連邦の維持を目指し、新連邦条約を結び、主権国家による連邦を創設しようとしました。しかし、ウクライナ抜きの連邦はあり得ないと考えていたエリツィンは、ソ連の解体を推進し、12月7日、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3首脳がミンスク郊外ベロヴェージで秘密裏に会談し、ソ連の解体と「独立国家共同体(CIS)」の創設で合意しました。
ゴルバチョフはこの「陰謀」を察知していましたが、多くの犠牲者が出る流血の内戦を避けるために、逮捕命令を出せなかったと回顧しています。同月21日、アルマ・アタで開催された首脳会議でCIS条約が調印されました。これを受け、25日にゴルバチョフはソ連大統領職を辞任することをテレビ演説で表明し、ゴルバチョフの辞任とともに、ソ連も名実ともに消滅しました。
8.まとめ
最後に、ゴルバチョフに対する評価についての話をしたいと思います。
日本や欧米諸国は、ゴルバチョフに対して高評価です。それは、冷戦を終結させ、独裁体制だったソ連(ロシア)を民主化させたという部分が評価されているからです。東欧諸国でも、ゴルバチョフは改革の象徴として人気がありました。
しかし、ロシアでは評価が異なります。ゴルバチョフの改革は全くうまくいっておらず、さらに「冷戦の終結」とは東側の「敗北」であり、ソ連(ロシア)の国際的地位を低下させた、という風にとらえられているからです。確かに、上述の通り、ゴルバチョフの改革は彼の意図とは違う方向へと向かってしまい、その結果としてソ連が崩壊した、というのは間違いではありません。
20世紀の歴史の中心にいた人物が、また一人亡くなりました。今年のウクライナ侵攻に関して、本人が声明を発表しないことが気にかかっていました。安らかに眠られますよう、お祈りいたします。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
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