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ウクライナの歴史4 ウクライナ民族主義のはじまり

1.はじめに~「ウクライナ化」するウクライナ~

前回紹介したように、ウクライナの人口の約30パーセントは、ロシア語を母語としており、それ以外にも、ハンガリー語、クリミア・タタール語、ルーマニア語などの様々な言語を使用する人がいます。しかし、2004年のオレンジ革命以降、「ウクライナ化」政策ともいうべき政策が推進されています。

2004年に就任したユーシチェンコ大統領政権下では、ロシアから輸入された映画やテレビドラマのウクライナ語吹き替えの義務化や、裁判所でのロシア語の使用が認められていたクリミア住民の地域特権のはく奪などが行われました。

2018年2月には、「国家言語政策の基礎について」という法律が廃止されました。これは、その話者の人口が任意の地域において10パーセントを超える場合に、その言語を「地域語」とする法律で、「地域語」は、法律・事務・学校教育・マスコミなどの分野において使用することができました。この法律の廃止により、あらゆる面でウクライナ語の使用が強制されるようになりました。

こうしたウクライナ化は、政権が支持率欲しさ社会経済失策から国民の目をそらすために、国民の民族主義を刺激する目的で行われてきました。では、こうした政策を支持するウクライナ人の民族主義的感情は、いつ頃誕生したのでしょうか。それは、他の国の民族主義同様、19世紀においてでした。

2.ロシア帝国におけるウクライナ民族主義

ロシア帝国における民族主義運動をけん引したのは、ロマン主義の影響を受けた歴史家や文学者などの知識人階級(インテリゲンツィア)でした。彼らは民間伝承や歌謡、コサックの栄光などを探究し、それを文学、詩歌、史書、絵画、音楽で表現し、ウクライナ人意識を訴えました。

代表的な民族運動家としては、最初のウクライナ近代文学作品と言われる『エネイーダ』を執筆したイヴァン・コトリャレフスキー、ロシア帝国への敵意とウクライナへの愛情ある詩を歌いあげたタラス・シェフチェンコ、『フメリニツキー伝』で知られる歴史家ミコーラ・コストマーノフ、聖書のウクライナ語版を執筆したパンテレイモン・クリーシらがあげられます。

タラス・シェフチェンコ(1814-1861)

特に、シェフチェンコは、現代においてもウクライナの国民詩人と言われ、親しまれています。シェフチェンコは、詩集『コブザール』(1840年)において、虐げられた存在に対する限りない同情と共感を、『ハイダマキ』(1841年)では、コサックがウクライナを統治していた時代の誇り高い自治の伝統を描きました。そして、1845年には、ウクライナを疲弊させ、悲惨な状況に突き落としたロシアの支配者とそれに加担するウクライナの地主たち、支配者に無言で従う農民に対する深い嘆きと憤りを表現した詩集『三年』がまとめられました。

シェフチェンコの作品は、民衆の話し言葉を核に、教会スラヴ語の要素を吸収したウクライナ語で書かれており、現代ウクライナ語の塑形となりました。

キエフにあるシェフチェンコ像
By MaverickLittle, CC BY-SA 4.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=42675180

3.政治結社の設立と弾圧

シェフチェンコ、コストマーノフ、クリーシらは、近代ウクライナ史上最初の政治結社である「キリル・メトディ団」を結成します。メトディ団は、神の前の絶対的平等という理念に基づき、農奴制の廃止、全スラヴ民族の対等な関係を基礎とするスラヴ連合の形成を主張しましたが、1847年にメンバー全員が逮捕されてしまいます。

19世紀後半になると、旧メトディ団のメンバーによって「フロマーダ」という結社が新たに結成されます。彼らは特に農民への教育活動に力を入れ、日曜学校で農民たちにウクライナ語、ウクライナ語の唄、コサックの歴史について教育しました。

しかし、ウクライナ民族主義運動を警戒したロシア政府は、徹底的なウクライナ語弾圧を行いました。特に、1876年の「エムス法」により、あらゆる分野におけるウクライナ語出版が禁止されました。ロシアにおけるウクライナ語の使用は、1917年のロシア革命まで不可能な状態が続きました

4.オーストリア帝国の統治下のウクライナ

ウクライナ民族主義の歴史においてもうひとつ重要な国は、オーストリアです。オーストリアは、ポーランド分割によって東ハーリチナ地方、ブコヴィナ地方、ザカルパチア地方のウクライナの3つの地域を獲得していました。東ハーリチナは、別に獲得された西ハーリチナと合わせてハリチナー州というひとつの行政単位となりました。オーストリア帝国において、ウクライナ人は「ルーシ人」をラテン語化した「ルテニア人」と呼ばれていました。

20世紀初頭のオーストリア・ハンガリー帝国
右上の黄緑色の部分がルテニア人居住地域

オーストリアでは、マリア・テレジアとその子ヨーゼフ2世のもと啓蒙君主的な政策が行われ、拷問禁止を含む刑法の改正、宗教の平等、初等教育の義務化、農奴改革などがおこなれていました。ハリチナーのウクライナ人たちにも、賦役の軽減、小土地所有、領主の同意なしでの結婚など、益のある政策が実施されました。このため、オーストリア帝国におけるウクライナ人たちは、ロシア帝国におけるウクライナ人よりも、恵まれた境遇にあったといえます。また、ハリチナーの主都市であるリヴィウにリヴィウ大学が設立されたのも、この時期です。

5.オーストリアにおけるウクライナ民族運動

このように、専制君主体制のロシアと比較すると、同時代のオーストリアは比較的自由な風土がありました。そのため、ロシア領内のウクライナ人たちは、オーストリアのウクライナ人と交流したり、オーストリアでウクライナ語出版を行ったりしていました

そのうちの一人が、ミハイロ・ドラホマーノフです。ドラホマーノフは、フロマーダのメンバーで、弾圧によりスイスのジュネーブへと亡命していましたが、亡命先からハリチナーのウクライナ語雑誌に寄稿し、リヴィウ大学のウクライナ人学生たちに影響を及ぼしていました。

ミハイロ・ドラホマーノフ(1841-1895)

ドラホマーノフの影響を受けていた学生のひとりが、イヴァン・フランコでした。フランコは作家となり、文筆活動を通じてハリチナーのウクライナ人の現状を訴え続けました。また、労働ストライキを指導するなど、ハリチナーの政治運動の中心人物となっていき、1890年には、ウクライナの統一・独立が標榜する「ウクライナ急進党」を結成しました。

イヴァン・フランコ(1856-1916)

ロシア領であったキエフ出身のミハイロ・フルシェフスキーは、1894年にリヴィウ大学のウクライナ史講座の教授となりました。彼の就任により、ウクライナ史研究・ウクライナ語出版が活況を呈しました。また、ウクライナの科学アカデミー的な存在として、「シェフチェンコ科学協会」を設立しました。

ミハイロ・フルシェフスキー(1866-1934)

6.まとめ

オーストリアの統治下におかれた西ウクライナが、ロシアの影響下となるのは、第二次世界大戦中に、ポーランドからハリチナーが、ルーマニアから北ブコヴィナが、チェコスロヴァキアからザカルパッチャがそれぞれ割譲され、ウクライナ領とされるまでかかりました。

そのため、現代のハリチナー地方(リビウ州、イワノフランキフスク州、テルノーピリ州)は、ウクライナの中でも最もロシア的でない地域と言え、特に民族主義と反露感情が強い傾向にあります。2014年のユーロマイダン革命をけん引した「自由」などの極右政党は、ハリチナー地方を地盤としています。

2014年のクリミア併合・ドンバス紛争によってロシア系住民の多い東部が切り離された結果、こうしたウクライナ化政策も支持されやすくなっているといえます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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参考

黒川佑次『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』中央公論社,2013年(初版2002年)
服部倫卓,原田義也編『ウクライナを知るための65章』明石書店,2018年
土肥恒之『ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社,2016年(初版2007年)
松里公孝『ポスト社会主義の政治――ポーランド、リトアニア、アルメニア、ウクライナ、モルドヴァの準大統領制』筑摩書房,2021年

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