【近現代ギリシャの歴史5】近代ギリシャのヘレニズム
こんにちは、ニコライです。今回は【近現代ギリシャの歴史】第5回目です。
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近代ギリシャ人のアイデンティティとなったのは、何より偉大な古代ギリシャ人の末裔であるという特権的意識でした。独立ギリシャの国家建設も、こうした古代ギリシャとのつながりを示すために、古代ギリシャの「再生」を目指したものになっていきます。今回はそうした古代「再生」を、歴史観、首都造営、近代オリンピック開催、そして国家言語という4つのトピックから見ていきたいと思います。
1.ギリシャ人通史の誕生
古代ギリシャ人の末裔であるという意識を持っていた近代ギリシャ人ですが、1835年、このアイデンティティを脅かす出来事が起こります。それは、バイエルン科学アカデミーの歴史学者ヤコブ・フィリップ・ファルメライヤーが唱えた近代ギリシャ人の起源に関する学説です。彼によれば、6世紀以降に起きたスラヴ人のギリシャ侵入により、古代ギリシャの痕跡は民族的にも文化的にも消し去られてしまっており、近代ギリシャ人と古代ギリシャ人の間には何のつながりもない、というのです。
ファルメライヤーの学説は、近代ギリシャのアイデンティティを根底から覆しかねず、何としても反駁しなければなりませんでした。アテネ大学の歴史学教授コンスタンディノス・パパリゴプロスはその役を引き受け、『ギリシャ民族の歴史』を著し、ギリシャ人の歴史は古代から近代にいたる絶え間ないものであった、という歴史観を提示しました。
パパリゴプロスは、神話時代から古代ポリスの時代までを「最初のヘレニズム」、マケドニア王国によるギリシャ征服と東方拡大の時代を「東方ヘレニズム」、ビザンツ帝国時代を「中世ヘレニズム」、そして、独立戦争の時代を「近代ヘレニズム」と称しました。ヘレニズムという用語でギリシャの歴史を通観し、さらに、古代と近代をつなぐ時代として中世ビザンツ帝国を再評価したのです。彼の『歴史』は版を重ね、幅広い層に読み継がれ、近代ギリシャ人のアイデンティティを形作っていきます。
2.首都アテネの「再生」
1854年、ペロポネソスの仮首都ナフプリオンからアテネへの遷都が行われました。古代ギリシャの中心的な都市国家だったアテネでしたが、ビザンツ・オスマン帝国両時代を通してその地位を低下させていき、独立当時は人口1万2000人の地方都市に過ぎませんでした。しかし、栄光の歴史を持つアテネを首都とすることは、近代ギリシャが古代ギリシャの継承者であることを国内外に示す重要な要素とされました。
遷都後、オスマン時代のモスクや入り組んだ小道、公衆浴場、さらにはビザンツ時代の教会までもが古代の景観にそぐわないとして破壊されました。代って、幅広い碁盤目状の道路が張り巡らされ、新古典様式の建物が次々と建てられました。アテネはヨーロッパ風の近代都市と、古代ギリシャのイメージとが融合した都市として生まれ変わったのです。
考古学研究にも力が入れられ、1834年には考古学局が、1837年にはアテネ考古学協会が設立され、国家事業として古代遺跡の発掘・調査・保護が行われました。その一方で、1846年にフランスの研究所が創設されたのを皮切りに、欧米各国から研究者が集まり、研究に従事するようになりました。こうした調査を通じて、一般のギリシャ人たちの間にも古代ギリシャと結びつきにこそ価値がある、という考えが広まりました。
3.近代オリンピックの開催
1894年に開催されたパリ国際スポーツ会議において、ピエール・ド・クーベルタン男爵の提案により、古代オリンピックを復興させた国際的なスポーツ競技大会の開催が決定されました。満場一致でその開催地に選ばれたのが、ギリシャの首都アテネでした。当時のギリシャ首相トリクピスは財政状況がひっ迫していたこともあり、開催については否定的でしたが、トリピクスの政敵である野党代表ディリヤンニス、さらにギリシャ王室は国民意識の高揚やヨーロッパからの歓心を買うことを狙い、オリンピック招致を推進しました。
翌年に政権交代が起き、ディリヤンニスが首相となると、もはやオリンピックに反対するものはいなくなり、ギリシャは開催に向けて邁進します。メイン会場としては、古代アテネの遺跡にパンアテナイア・スタジアムが再建されました。そして、1896年4月6日、第1回近代オリンピック大会が開催されます。参加選手は14か国から241人、すべて男性で半分以上がギリシャ人でした。
全体としてみると、ギリシャ人選手の成績は芳しくなく、なかなか優勝できませんでした。しかし、大会のクライマックスを飾ったマラソン競技では、無名のギリシャ人農民スピロス・ルイスがトップを飾りました。こうして成功裡に終わった第1回近代オリンピックはギリシャ・ナショナリズムと結びつき、ギリシャ人の偉大さを示す国威発揚の場となったのです。
4.二つのギリシャ語
古代ギリシャとの結びつきで特に重要視されたのが、言語です。当時のヨーロッパでは、言語は民族の独自性を証明すると考えられていたからです。通常、国家言語には、その国民が話している多数派言語を採用することが多かったですが、ギリシャの場合は違いました。近代ギリシャ人たちは、大多数の民衆が話している口語ギリシャ語を採用するのではなく、古代ギリシャ語の復活が目指したのです。
アッティカ方言の古代ギリシャ語は、19世紀においても文語の形で継承されていました。ギリシャ人啓蒙主義者コライスは、完全な古代ギリシャ語への回帰は不可能としながらも、できるだけ古代ギリシャ語に近い言語が使用されるべきだと主張しました。彼が考案した古代ギリシャ語と口語ギリシャ語の中間に位置する折衷言語を、カサレヴサといいます。
カサレヴサとは、「浄化する」、「汚れを落とす」という意味のギリシャ語の動詞「カサリーゾー」から派生した言葉で、「純正語」という意味です。コライスは口語ギリシャ語を外国の影響で「汚れた言語」と見なしており、口語ギリシャ語は、古代ギリシャ語によってその「誤りを正すべき」であると考えていたのです。この口語ギリシャ語は、「民衆語」という意味のディモティキと呼ばれました。
5.加熱する言語論争
独立ギリシャが国家言語として採用したのは、カサレヴサでした。行政、法廷、議会、軍隊など国の公的な場ではカサレヴサが使用され、公用語としての地位を獲得していきました。初等教育から高等教育まで、学校教育の現場ではカサレヴサが唯一の言語として学習され、すべての科目がカサレヴサで教えられました。
これに対し、文学者を中心とする知識人たちの中には、ディモティキの地位向上を目指す人々も存在しました。彼らは、古代ギリシャ語への固執はギリシャを立遅らせるだけであり、ディモティキを民族語として使用し、自由な表現や世界の探求、新たな文化を創造する必要がある、と主張しました。1888年、古典学者ヤニス・プシハリスが出版したディモティキによる小説『私の旅』をきっかけに、ディモティキを文章語として使用する「言文一致運動」が高まりました。
しかし、カサレヴサ支持派は、ディモティキを俗悪な言語として嫌悪し、ディモティキ支持派を民族の敵として激しく非難しました。両者の対立は20世紀初頭には遂に流血事件にまで発展します。1901年の「福音書事件」、そして1903年の「オレステイア事件」では、ディモティキで書かれた聖書の出版や古代ギリシャ悲劇の上演に対し、カサレヴサ支持派によるデモが勃発し、その小競り合いによって死傷者が出たのです。両者の対立は、その後も20世紀後半まで続くことになります。
6.まとめ
近代ギリシャの古代への崇拝と固執には凄まじいものを感じます。しかし、裏を返すと、それは近代ギリシャ人の古代ギリシャへの劣等感だったのではないかと思います。偉大で、栄光の歴史を持ち、優れた文化を生み出した古代ギリシャに対し、自分たちは野蛮で劣っている。そうした劣等感に突き動かされ、ひたすら古代ギリシャと同化しようとしたのでしょう。しかし、言語論争での両派の対立のように、そうした行動はしばしば現実を無視し、空回りしていたのではないかと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
主な参考
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