見出し画像

【ビザンツ帝国の歴史7】マケドニア・ルネサンス

こんにちは、ニコライです。今回は【ビザンツ帝国の歴史】の第7回目です!

前回の記事では、8世紀から9世紀前半に行われたイコン崇敬をめぐる論争についてまとめました。イコノクラスム(イコン破壊運動)が終息する9世紀半ば、ビザンツ帝国は国力を回復させて大国としての自身を取り戻していきました。7世紀~8世紀の暗黒時代からようやく立ち直ると、この時代に失われた古典文芸の復興運動が行われるようになります。今回は9世紀中ごろに成立するマケドニア朝とその時代の古典復興運動である「マケドニア・ルネサンス」について見ていきたいと思います。

1.マケドニア朝の成立

イコノクラスムが終息した843年当時の皇帝ミカエル3世はわずか2歳であり、政権運営は摂政となった母テオドラと宦官のテオクティストスが担いました。しかし、ミカエルは成長するにつれて、母親の庇護下にあることに不満を覚えるようになります。これを利用したのがテオドラの弟、すなわち皇帝の叔父バルダスペトロナスで、856年、彼らはクーデターを起こしてテオクティストスを殺害、さらにテオドラを修道院に引退させました。

クーデター後、バルダスは副帝(カエサル)の爵位を得、ペトロナスは軍隊のトップとなり、政治に関心のなかったミカエルに代わり、10年以上も政権を担いました。しかし、そのミカエルに再び実権を握るようにそそのかす人物が現れます。それがトラキア地方の農民出身で、バルダスの血縁者テオフィロスの従者だったバシレイオスです。

ミカエルの信用を得たバシレイオスは、866年にバルダスとペトロナスを暗殺します。その後、ミカエルは彼を養子として共同皇帝に任命しますが、翌年9月、そのミカエルをも殺害し、まんまと国家乗っ取りに成功しました。1056年まで続くこの新王朝は、バシレイオスの出身地からマケドニア朝と呼ばれます。

バシレイオス1世(左)とその息子コンスタンティノス(右)
By АНО "Международный нумизматический клуб" - АНО "Международный нумизматический клуб", CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=68027587

2.学問の復興とビザンツ知識人

先述のバルダスはマグナウラ宮殿に学校(通称「帝国大学」)を設立しますが、ここでは優れた知識人たちが教鞭をとるかたわら、様々な文化活動に携わりました。

ユークリッドやピタゴラスなど古代ギリシャ数学に精通していた「数学者」レオンは、皇帝の玉座を一瞬で天井付近まで上昇させる自動機械「ソロモンの玉座」や、東方国境地帯での異変を700キロ以上先にある首都までわずか1時間で伝える「砲火台システム」など、優れた発明品を残しました。文法を教えていたコメタスは、この時代にほとんど忘れられていたホメロスの叙事詩の古い写本を発見し、それを書き写して注釈を書き加えました。

特に重要な人物は、俗人ながらコンスタンティノープル総主教に任命された文官のフォティオスです。若かりし頃の彼は独学で学問を進め、自身の読書ノート、通称『文庫』(ビブリオテカ)をまとめました。その中で紹介されている書物は386冊にも及び、ジャンルもキリスト教・異教、宗教的・世俗的を問わず、古代から当時まで実に様々です。さらにその豊富な知識から、『辞典』の編纂も行っています。

フォティオス(820-891)
多くの国家官僚を輩出した名門の出身。総主教としては、キュリロスとメトディオス兄弟のモラヴィアへの派遣やブルガリアのキリスト教化など、対外宣教に努めた。

3.「賢者」レオン6世

マケドニア朝には、こうした文芸活動に自ら携わる皇帝も現れました。第2代皇帝レオン6世もその1人です。

レオン6世(866-912)(左側で跪いている人物)
文人肌で終生戦場に赴くことはなかった。なお、画像はハギア・ソフィアのナルテックスの天井に描かれたモザイク画であり、一般的にレオン6世とされているが、異説もある。

「賢者」とあだ名されるこの皇帝の代表的な著作が、父バシレイオス1世から編纂事業を引き継いだ『バシリカ法典』です。ビザンツ帝国の基本法は6世紀に成立した『ローマ法大全』ですが、これはラテン語で書かれていたため、ギリシャ語が公用語となっていた9世紀当時、その内容を理解できる人はほとんどいなくなっていました。レオンは『ローマ法大全』の内容を整理し、ギリシャ語に翻訳した新しい基本法を完成させたのです。

レオンはこのほかに、首都におけるギルドの活動規定集である『総督の書』、陸海の戦略・戦術の手引書『タクティカ』などを著しています。また、文官フィロテオスによって、ビザンツの官僚機構のありさまを描いた『クレトロロギオン』がまとめられたのも、彼の治世においてでした。

内政面で優れた成果を上げたレオンでしたが、シチリア島をイスラム勢力に占領され、シメオン王率いるブルガリア軍に敗退するなど、外政では苦戦を強いられました。さらに、1人目・2人目の妻には子供ができる前に先立たれ、3人目の妻との子は死去するなど、跡取りに恵まれませんでした

4.文人皇帝コンスタンティノス7世

コンスタンティノス7世はレオン6世と愛人ゾエの間にできた子供でした。父の死後、わずか7歳で即位したため、叔父のアレクサンドロスが共同皇帝となりますが、彼はわずか1年で死去します。その後、ゾエの信任の厚い将軍ロマノス・レカペノスとその息子たちが実権を握りますが、945年にクーデターを起こして政権を獲得します。

コンスタンティノス7世(905-959)(左)
父レオン6世と同じく一度も自ら軍を率いたことがなかった。彼の頭上の文章は「専制君主コンスタンティノス」、彼とキリストの間の文章は「ローマ人の皇帝」と書かれている。

コンスタンティノスも父同様文人肌であり、政治はそっちのけ学芸にのめり込みました。彼の治世には非常に多くの著作が編纂されており、レオン5世以降の皇帝たちの実績を記述した歴史書『続テオファネス年代記』、国内諸地域の地誌情報をまとめた『テマについて』、帝国周辺に居住する多様な民族の習俗を論じた『帝国統治論』、古来以来の宮廷儀式を集積した『儀典の書』などがあげられます。

コンスタンティノスの集大成ともいうべき作品が「コンスタンティノス抜粋」です。これは10世紀半ば当時、帝国に残されていたすべての歴史系書物の情報を分類・編纂し、データベース化を図るという壮大な事業でした。残念ながらその一部分しか現存していませんが、その中でもヘロドトスやトゥキディデスなど実に26名もの歴史家・著述家の作品が引用されています。

5.教養ある俗人たち

コンスタンティノス7世期に最高潮を迎えるマケドニア朝期の古典文芸の復興運動は、通称「マケドニア・ルネサンス」と呼ばれています。この運動の特徴は皇帝たちや「数学者」レオンやフォティオスなど、教養ある俗人が担い手であったという点にあります。これは学術活動が教会関係者に限られていた同時代の西欧とは対照的です。

俗人たちによる活動が盛んだった背景にあるのは、ビザンツ帝国の教育レベルの高さでしょう。初等教育に関してはかなり広範に普及しており、小アジアの最奥地の村にさえ私塾があったほどです。ほとんどの子供たちは8~9歳ごろ、2~3年程度読み書きや計算を習って終わりでしたが、裕福な貴族たちの子弟は中等教育を受けるために、親戚を頼って首都へ行きました。さらに上を目指す人々は高等教育を受け、修辞学、哲学、法学などを学びました。

ビザンツ時代の哲学授業の様子
ビザンツ帝国の教育は、基本的に国家ではなく民間が中心だった。
By Byzanz - http://www.granger.com/results.asp?image=0024558&inline=true&itemx=3&wwwflag=4&screenwidth=1920, FAL, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10112166

高いレベルの教育を受けた人々は、国家官僚となっていきました。中等教育で暗記するホメロスの詩はビザンツ官僚の常識であり、また、修辞学も皇帝に仕えるための弁論術として学ばれていました。コンスタンティノス7世のように皇帝が学芸にかまけていても政治がうまく回っていたのは、有能な官僚層が形成されていたおかげだったのです。

6.まとめ

「ルネサンス」という言葉を聞くと、ほとんどの人は近世のイタリア・ルネサンスを思い浮かべるかと思いますが、イタリアにもビザンツ帝国における文芸復興が大きく影響しています。というのも、近世の西欧、さらにいえば現代に伝わっているギリシャ古典の多くは、このマケドニア朝期に復興したものだからです。ビザンツ帝国の文化活動は、古典の収集と編纂に終始した古典趣味的なもので創造的活動ではなかったと批判されてきました。しかし、今日の私たちがホメロスを読むことができるのは、ビザンツ人たちが古典復興に努めたおかげなのです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

◆◆◆◆◆

前回

次回


この記事が参加している募集

学問への愛を語ろう

世界史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?