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ウクライナの歴史9 ウクライナ独立とソ連崩壊

1.はじめに~ヨーロッパの大国、ウクライナ~

現代のウクライナは、1991年8月24日に旧ソ連から独立し成立しました。国土面積は約60万㎢(日本の国土面積の約1.5倍)と、ヨーロッパにおいては2番目に大きく、人口はヨーロッパで7番目に多い4000万人です(ちなみに面積・人口ともヨーロッパ1位はロシアです)。

1991年の時点で、ソ連の主要経済指標に占めるウクライナの比率は、人口:18.3パーセント、国内総生産(GDP):14.5パーセント、鉱工業生産:16.7パーセント、農業生産:20.7パーセントと非常に大きく、いずれの指標においてもロシアに次ぐ第2位であり、非常に高いポテンシャルを有していました。

ソ連末期、反ソ感情が強いバルト三国が真っ先に独立を宣言しました。実はそれに続いて独立を宣言し、ソ連崩壊のきっかけをつくったのは、ウクライナでした。

2.ペレストロイカとグラスノスチ

1970年代に入ると、ソ連全体で経済の停滞が目立つようになりました。ウクライナでも、第5次五カ年計画(1951~55年)の際は13.5パーセントだった工業成長率が、第11次五カ年計画(1981~85年)の際には3.5パーセントにまで低下しました。工業設備の老朽化は深刻化し、電力不足が慢性化していました。農村人口が減少したことも相まって農業生産は停滞したままで、穀物輸入が常態化しました。

1985年にソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、ソ連社会の全面的な改革の必要性を痛感し、「ペレストロイカ(立て直し)」と「グラスノスチ(情報公開)」を推進しました。

ミハイル・ゴルバチョフ(1931-)
ペレストロイカとグラスノスを宣伝する切手。1988年

ペレストロイカに拍車をかけたのが、チェルノブイリ原子力発電所の爆発事故でした。1986年4月26日、キエフの北方100㎞にあるチェルノブイリ原発の第4号炉が爆発し、大量の放射性物質が大気中に放出されました。しかし、大規模な事故にもかかわらず、事故の発生は2日後の28日まで伏せられていました。

こうした隠ぺい体質を目の当たりにしたゴルバチョフは、経済だけでなく、社会生活のあらゆる面でのペレストロイカを強く訴えるようになりました。

3.ウクライナでの展開

グラスノスチの浸透により、ウクライナでは長年タブーであった1932年~1933年のホロドモールや1930年代~40年代における大粛清の実態調査や、ウクライナ人民共和国を創設したコストマーノフ、フルシェフスキー、ヴィンニチェンコらの名誉回復が行われました。さらに、ウクライナ語復権の動きが高まり、1989年の「ウクライナ言語法」によりウクライナ語が国語とされました。

1989年、ウクライナ共産党第一書記のヴォロディーミル・シチェルビツキーが失脚すると、「ペレストロイカのためのウクライナ国民運動(通称:ルーフ)」が結成されました。これは、人権・少数民族の権利・宗教の保護、ウクライナ語の復権を求めるゆるやなか組織でした。ルーフは30万人近い市民から支持され、民間の政治運動をリードしました。1990年に実施された、ウクライナ最高会議の選挙では、共産党が議席の3分の2を占めましたが、親ルーフの候補者たちも議席の4分の1を獲得しました。

キエフの10月革命広場に集まったルーフの活動家たち。1990年7月24日
By М.Яковенко, В.Білецький - М.Яковенко, В.Білецький. Own work, Public Domain,
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4.主権宣言

グラスノスチが進んだことで、それまで抑えられていた民族的な対立や緊張が表面化し、連邦対共和国の対立が起こりました。その急先鋒となったのが、ラトヴィアエストニアリトアニアバルト3国です。1988年にエストニアが、1989年には続いてラトヴィアとリトアニアが「主権宣言」を行いました。これは連邦の法令は共和国最高会議の批准によって効力を発揮するというもので、連邦法に対する共和国法の優位を主張するものでした。

ソ連最高会議幹部会は、この決定は連邦憲法違反であり無効であると宣言しましたが、連邦の中心であるロシアをはじめとする他の共和国内でも、次々に主権宣言がなされました。ウクライナでは、最高会議議長レオニード・クラフチュークによって6月16日に主権宣言が採択されました。

レオニード・クラフチューク(1934-)
By Jan van Steenbergen,
CC BY-SA 3.0,
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6.ウクライナ独立とソ連の崩壊

この事態に対し、ゴルバチョフは連邦と共和国との関係を規定する「新連邦条約」を締結し、連邦を維持しようとしました。1991年3月に行われた国民投票において、連邦の維持に関しては全共和国で賛成多数となりました。ウクライナにおいても、賛成票が70パーセントとなりました。

しかし、連邦の権限を大きく削減する「九+一合意」が、連邦政府や議会の了承を得ずに、連邦と投票を実施した9共和国との間で交わされましたことに対し、連邦政府内の要人たちは強い不満を示しました。8月20日、モスクワで保守派によるクーデターが起き、ゴルバチョフは拘禁されました。この「8月クーデター」は、ロシア共和国大統領ボリス・エリツィンらが徹底抗戦する姿勢を示し、モスクワの市民もこれを支援したため、失敗に終わります。

ボリス・エリツィン(1931-2007)
ロシアの国旗を振っている人物
By Kremlin.ru, CC BY 4.0,
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ウクライナは、このクーデターを機に独立へと舵を切りました。8月23日、ウクライナ最高会議はほぼ全会一致で独立宣言を採択しました。1991年12月1日に行われた独立を問う住民投票では、ウクライナ全土で90パーセントの賛成票が投じられました。同時に行われた大統領選挙では、62パーセントの得票率でクラフチュークが当選し、ウクライナ初代大統領に就任しました。

独立に賛成票を入れた割合。
ロシア人人口の多い、ハルキフ、ドネツク、ザポリッジア、ドニプロペトロフスク、クリミアでも賛成が過半数を上回った。
By Alex K, CC BY-SA 3.0,
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ウクライナ抜きの連邦はあり得ないと考えていたエリツィンは、この投票結果に衝撃を受けました。12月7日、クラフチューク、エリツィン、そしてベラルーシのシュシケヴィチの3首脳がミンスク郊外ベロヴェージで会談し、ソ連の解体と「独立国家共同体(CIS)」の創設で合意しました。21日にアルマ・アタで開催された首脳会議でCIS条約が調印され、25日にゴルバチョフがソ連大統領職を辞任したことで、ソ連は名実ともに消滅しました。

ベロヴェージで会談する3首脳
左からクラフチューク、シュシケヴィチ、エリツィン
Автор: RIA Novosti archive, image #52076 / Yuriy Ivanov / CC-BY-SA 3.0,
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7.まとめ

8月24日は、現代ウクライナでは独立記念日となっており、国を挙げて盛大に祝われています。一方、2014年のドンバス紛争以降、5月9日の戦勝記念日など、ソ連時代から引き継がれたいくつかの祝祭日については、廃止されたり、以前は行われていたパレードを実施しないようになっています。

さて、ウクライナ人にとっては悲願の独立だったわけですが、プーチン大統領はソ連崩壊という手違いによってウクライナが独立してしまった、という歴史観を展開しています。今回の戦争には、そうしたプーチン大統領の身勝手な歴史観が関係しているのではないかと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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参考

黒川佑次『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』中央公論社,2013年(初版2002年)
服部倫卓,原田義也編『ウクライナを知るための65章』明石書店,2018年
松戸清裕『ソ連史』筑摩書房,2012年
土肥恒之『ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社,2016年(初版2007年)

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