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ウクライナの歴史8 ソ連体制下のウクライナ

1.はじめに~ウクライナとロシアは、カインとアベル?~

第1回で取り上げましたが、プーチン大統領はロシア人とウクライナ人はひとつの民族であるという主張をしています。では、当のウクライナ人はその主張に対してどう思っているのでしょうか。プーチン大統領が公表した「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」という論文に対し、ゼレンスキー大統領は、ロシアのウクライナに対する態度は、真に兄弟的なものとはいえず、「カインとアベルの関係を思わせる」と指摘しました。

カインとアベルとは、聖書の中に登場するアダムとイヴの息子たちのことで、嫉妬から兄カインが弟アベルを逆恨みして殺してしまい、これが人類最初の殺人となったとされています。つまり、ウクライナとロシアは愛や絆で結ばれた兄弟ではなく、敵意のある関係だと言いたかったのだと思われます。

ウクライナとロシアとの間の敵意は、ロシア帝国による統治時代にすでに存在していましたが、革命を経たソ連時代でも変わりませんでした。ウクライナが自らの独自性を主張する一方で、ロシアはウクライナを同化させようとしました。

2.ソ連と構成共和国

1922年、ウクライナ、ロシア、ベラルーシ、ザカフカスの4つの共和国が同盟条約を結び、「ソヴィエト社会主義共和国連邦」が成立しました。ソ連は平等な共和国によって自発的に結成された連邦とされ、1936年に採択されたソ連憲法には、構成する共和国が自由に連邦から離脱する権利が明記されていました。

ソ連の構成共和国。最終的に15まで増加した。赤い部分がロシア共和国
By Milenioscuro, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=72667239

しかし、こうした原則は実態とは一致していませんでした。各共和国の政治的実権を握っている「共産党」は全連邦党の支部に過ぎず、連邦と共和国の間には支配と従属の関係が生じていました。さらに、全連邦党の組織と最大の共和国であるロシアにおける党組織とは分かちがたく一体化していたため、この連邦はまさしくロシアを中心とする連邦でした。

3.現地化政策から民族弾圧へ

1923年、ソ連政府が民族語・文化の普及と民族エリートの育成を推進する現地化政策が採用したため、ウクライナでも「ウクライナ化政策」が実施されました。ウクライナ語教育ウクライナ文化の研究・普及が推進され、ロシア人やユダヤ人が大半を占めていた共産党幹部へのウクライナ人の積極的登用が進められました。

しかし、1920年代後半にヨシフ・スターリンが権力を掌握すると、現地化政策は撤回され、各共和国に対する連邦中央の支配が強化されました。現地民族からなる共和国指導部の粛清が行われ、代わりに、モスクワからスターリンの部下たちが送り込まれました。ウクライナ共産党では、ウクライナ化を推進した10万人の党員が粛清され、共産党第一書記には、後にソ連の最高指導者となるニキータ・フルシチョフが就任しました。

スターリン(右)とフルシチョフ(中央)。1938年

さらに、全連邦においてロシア語教育が推進されました。ウクライナではロシア語教育は必修科目となり、ウクライナ語のアルファベット、語彙、文法のロシア語化が推進され、ロシア語作家の文学を読むことが推奨されました。

4.戦中・戦後の民族政策

1941年6月に独ソ戦が勃発すると、動員のために各民族のナショナリズムに対する統制が緩和されました。ウクライナでも、フメリニツキー勲章の制定などのナショナリズムを鼓舞する政策が行われました。しかし、大戦が終結すると、ウクライナ・ナショナリズムは再び抑圧されるようになります。

大戦末期から戦後にかけて、住民の強制移住が行われました。1945年末までに、戦争捕虜や強制労働者としてドイツにいたウクライナ人約200万人が、ソ連への送還されましたが、そのうち数万人が処刑され、35万人は政治的危険分子であるとして、中央アジアや極東へと強制移住させられました。さらに、戦後もソ連に抵抗し続けたウクライナ蜂起軍の家族と見なされた50万人が、北極圏へと強制移住させられました。

労働力不足を埋め、戦後の復興と新たに獲得した西ウクライナのソ連化・工業化のため、ロシア人労働者がウクライナへと流入しました。ウクライナの人口に占めるロシア人の割合は、戦前は400万人(人口の13パーセント)でしたが、1959年には700万人17パーセント)、1989年には1100万人22パーセント)にまで増加しました。

5.「雪解け」とロシア化政策の継承

1953年にスターリンが死去すると、権力闘争に打ち勝ったフルシチョフが第一書記に就任しました。フルシチョフは、1956年の第20回ソ連共産党大会において、スターリン時代に行われた「大粛清」とスターリンに対する個人崇拝批判を行いました。そして、非スターリン化の名のもとに、全ソ連に対する統制を緩和しました。この時代を「雪解け」と呼びます。

フルシチョフの時代になると、ウクライナ共産党第一書記、最高会議議長、首相にウクライナ人が就任するようになり、ウクライナ人の地位が向上しました。しかし、ロシア化政策は変わりませんでした。1954年、それまでロシア領であったクリミア半島がウクライナに委譲されますが、これは「ロシア・ウクライナ合同300周年」を記念したものであり、「ロシア人とウクライナ人は同根で将来一つの民族になる」という考えが、ソ連の公式見解でした。

ペレヤスラフ協定300周年記念切手。1954年
同協定により、ウクライナはロシアの支配下に入った。

ソ連政府の民族政策に対する不満が噴出したのが、1958年に発表された教育改革案でした。この改革案の中では、それまで必修であった初等・中等教育におけるロシア語と民族語が選択制とされました。ソ連国内での社会的上昇のためにはロシア語の習熟が必要条件である以上、多くの生徒はロシア語を選択することになるため、民族語は学ばれなくなり、衰退することを意味しました。この改革案は、ウクライナだけでなく、多くの共和国から批判が相次ぎましたが、結局実行されることとなりました。

6.民族主義者の抵抗と弾圧

1958年以降、ウクライナでは民族解放や独立を主張したという罪状で、非合法グループに対する裁判が度々行われました。逮捕された容疑者の中には、共産党員、党員候補、コムソモール(共産主義者青年同盟)員などがおり、体制内部でも不満が潜在していることは明らかでした。

1965年、最高の文学的栄誉であるシェフチェンコ賞を追贈された、詩人ヴァシーリ・シモネンコが、ソ連の民族政策を批判した遺稿を残していたことが公開されると、ソ連政府はウクライナ民族主義者の一斉捜索に乗り出しました。しかし、逮捕の理由と取調べ、裁判の強引さは、多くの市民の反発を引き起こしました。

こうした逮捕と抗議の中で注目を集めたのが、批評家のイヴァン・ジューバでした。ジューバは党中央に提出した「国際主義かロシア化か」という著作の中で、フルシチョフ以降の民族政策を痛烈に批判しました。

イヴァン・ジューバ(1931-2022)
写真は逮捕後のもの

一方で、ウクライナ共産党も「ウクライナ化政策」を公式に進行しました。1963年に第一書記に就任したペトロ・シェレストは、異論派の知識人・文化人、さらにウクライナ作家同盟の文学者たちと協同し、ウクライナ文化の復興の担い手となりました。

しかし、時代は「雪解け」から引き締めへと変わっていました。1964年に失脚したフルシチョフに代わって、共産党書記長となったレオニード・ブレジネフは、民族主義文化を危険視し、反体制派に対する弾圧を強化しました。

1972年、シェレストが「過度の地方主義とナショナリズム」を問われて更迭され、「ウクライナ化」は停止しました。さらに、同年には民族主義者の大量逮捕が行われ、厳しい弾圧によりジューバも自己批判をせざるを得なくなりました。シェレストの後任となったヴォロディーミル・シチェルビツキーは、ウクライナ語の使用を規制し、ロシア語の使用を推奨しました。1958年~1980年にかけて、ウクライナ語の出版物の占める割合は60パーセントから24パーセントにまで低下しました。ウクライナ語を使用する知識人は、反体制運動家と見なされるようになりました。

7.まとめ

民族自決を謳ったソ連でしたが、ロシア帝国時代からの同化政策は変わりませんでした。ウクライナ・ナショナリストの中には、当時のウクライナの地位はロシア帝国時代よりはるかに悪く、現実はモスクワの植民地であると、強く非難する人もいました。

また、問題は言語だけでなく、ウクライナの歴史にも及びました。ウクライナ独立のために戦ったフメリニツキーやマゼッパは、ロシアに対する「裏切り者」として扱われ、ロシア革命のときに成立したウクライナ人民共和国は批判の対象となり、第二次大戦中・大戦後にソ連と戦ったステパン・バンデラやウクライナ蜂起軍は、ナチ協力者の烙印が押されました。つまり、ウクライナがロシアから離れようとするあらゆる試みが、批判の対象とされたのです。ソ連体制下におけるウクライナは、自らの言語と歴史を奪われた状態にあったと言えます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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参考

青木節也「第19章 戦後ウクライナの民族問題―1945~1972年―」『東欧史研究』1978年,第1巻,221-238頁
黒川佑次『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』中央公論社,2013年(初版2002年)
服部倫卓,原田義也編『ウクライナを知るための65章』明石書店,2018年
松戸清裕『ソ連史』筑摩書房,2012年
土肥恒之『ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社,2016年(初版2007年)

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