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書評「物語論」(木村俊介)

物語を書く人はどんなことを考えて書いているか、物語を作らせる人は、どんなことを考えているか。音や絵に込めた物語を作るとき、どんなことを考えているのか。

本書は、村上春樹、島田雅彦、伊坂幸太郎、重松清、弘兼憲史、かわぐちかいじ、荒木飛呂彦、杉本博司など、各分野で活躍する17人の創作者が語るそれぞれの「物語論」についてインタビューし、考え方をまとめた1冊です。

物語は「書き写すこと」から始まる。

伊坂幸太郎と村上春樹。2人は現代の日本で最も小説が売れる2人と言っても過言ではありません。そんな2人が共通して行なっていたことがありました。それは、「書き写すこと」です。

村上春樹は小説を書くだけでなく「キャッチャー・イン・ザ・ライ」などの翻訳を行うことでも知られていますが、本書の中で小説の翻訳についてこのように語っています。

翻訳って究極の精読なんですよ。一字一句を揺がせにできない中で熟読するので、すごく小説の勉強になる。作家や分断とのつきあいもほとんどない僕にとっては、翻訳が唯一の文章修行みたいなものでした。

伊坂幸太郎は村上春樹とは異なり、物事や映像を「描写」し、書き起こす。という作業を行なっているそうです。本書の中でこのように語っています。

映画の「スーパーマン」のDVDを観ながら、小説の中のある描写を書いてみました。コマ送りにしたり、止めたりしながら、クラーク・ケントが、ヘリコプターの事故を目撃して、公衆電話ボックスを探し、スーパーマンになるとかいう変身のシーンを、いちいち文章だけで描写をしてみたんです。
(中略)
サッカーの映像を参照しながら、メッシが敵を抜いていく動作を、やっぱりいちいち文章で書き起こしてみたり。そういう「動きのデッサン作業」のようなものって、文章修行とかとはまた違うんでしょうが、発見があるので、やりたくなります。

なぜ2人は「書き写し」をやるのか。それは、物語を書く技術は「書くことでしか学べない」と理解しているからではないのでしょうか。書くことで身についていく筋肉のようなものが備わっていなければ、いくら頭の中に壮大な物語が広がっていても、文章に書き起こすことはできないということを、2人の話から感じます。

「敵と戦わない」「大きな事件を起こさない」クッキングパパの物語の秘密

僕が最も印象に残ったのは、クッキングパパの作者うえやまとちさんのインタビューです。クッキングパパは、日々の何気ない出来事と料理を描いた漫画なので、物語の盛り上がりを演出するポイントがこれといってありません。でも、何回も何回も読めてしまう不思議な漫画です。

僕は、どういう意図で作者が漫画を書いているのか、ずっと疑問に思っていました。うえやまとちさんは、クッキングパパがこのような漫画になった理由について、こう語っています。

福岡という地方にいながら、週刊連載という漫画の檜舞台で描き続けるには、よほど、東京で描かれる主流の漫画とは違う持ち味で勝負をしなければならなかったんです。敵とバトルをしない、大きな事件を起こさない、という「ほのぼの」味で漫画を描いたのは、主流の漫画と違う、ここにしかないものを求め続けての結果でもあるのかもしれません。

僕はこの部分を読んで、うえやまとちさんは、物語では敵と戦ってはいないし、大きな事件を起こしてはいませんが、「ほのぼの」という味を武器に、東京の漫画と戦っていたのかもしれない、と感じました。

だからこそ、クッキングパパはあっさりとした物語に思えるのに、何回も何回も読んでしまうのは、「ほのぼの」に熱い気持ちが込められているからなんじゃないか、そんなことを考えました。

全面的なことは小説でしかいえない。だから小説を書き続ける

最後に本書のあとがきに掲載されている、小説家の小島信夫さんのこんな言葉を紹介します。

ここに書かれている思いを、本書に登場する作家たちも持ち合わせているからこそ、物語を書き続けているのではないか。読み終わってそんなことを考えました。

小説には良かれ悪しかれ作家のすべてが出ますが、その作家から出てくるすべてはもはや「一つの意見」ではなくなります。
(中略)
ただ、インタビューは「一人の意見」のかたちで書かれるために、どうしてもその人の一つの切り口に過ぎなくなりますよね。その点で僕はやはり小説家で、全面的なことは小説でしかいえないと思っています。だから小説を書き続けているわけです。


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