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保育園における動物倫理(「はじめての動物倫理学」読書感想)


2月、NHKスペシャルの世界の食糧危機の回を見てから、牛と豚をなるべく食べない生活を始めた。


環境問題の観点から始めたので、鶏肉はオールOKというゆるゆるなルールで、でも、だからこそいまも続けられている訳だけど「はじめての動物倫理学」(田上孝一,2021)を読んで、いまいよいよそれも厳しくなるかもな、と感じている。

帯からして「肉を食べるのはもうやめよう」と、ど直球だ。

そもそも最近のぼくは、みんなに優しくありたいというようなことを率直に思っていて、それゆえに自分が加害側に立つフェミニズム(女性差別)を勉強したり、労働者、障害者、子どもなど様々な社会的弱者の人たちを含めたみんなが平等に救われる世の中にするにはどうすればいいのだろう、というようなことをつらつらと考え続けている。

この本を読んで、動物も性差別や人種差別を受ける人たち同様、この社会においての社会的弱者であって、優位に立つ人間が支配し、搾取することで、人間の生活は成り立っているのだということを改めて理解した。

特に「動物園」と「肉食」については、急所をつかれたような感覚だ。

ぼくは保育園で働いている。上に書いた社会的弱者の代表でもある子どもたちのために日々よい保育環境を作ろうと努めている。
その弱者たちのための“優しい”保育園の子どもたちの生活すらも動物園や肉食など、動物からの搾取によって成り立っていることに気付かされたからだ。

一方の視点から見れば保育園は、たくさんのちびっ子たちが自由にのびのびと過ごし、笑顔と活気に溢れる、とても豊かで暖かいユートピア的な世界だ。

でも、もう一方の側からみれば、とても残酷で痛々しい動物たちの悲痛の叫びと、リアルな虐待、被害によって成り立っている。
動物倫理の観点から捉え直せば、子どもたちの無邪気な笑顔は、狂気の沙汰にも見えてしまう。

例えば、年長児の遠足の行き先として動物園へ行くことが常態化している。もちろん、一方の観点からすればこれはとても一般的だ。普遍的ですらある。
みんなで動物園にいき、さまざまな動物たちを見学して、帰ってきて気になった動物の絵を描く。とても楽しく、思い出になり、学びにもなる時間だ。

ただ、著者によれば「野生動物を本来の生息域から引き離し、それによって動物に苦痛を与える施設が動物園」である。

たしかに考えてみれば、ライオンやトラはサバンナで群れで生息しているはずだし、チンパンジーは元々ジャングル、ニホンザルなら田舎の山奥と、それぞれの生活しやすい拠点があり、自然と共生していたはずだ。

ニホンザル一種をとってみても、コンクリートとプラスチックボード、タイヤや申し訳程度の木材で作られた動物園の「サル山」で満足して暮らせるとは到底思えない。

ぼくは、これまでもさまざまなフィクションの中で「動物と人間が逆転し、人間が施設に隔離されている世界」を見て、考えさせられることはあった。
あまりに当たり前すぎて気付かないけれど、言われてみれば「人里離れた地に住んでいる動物が、人間の好奇の視線に晒されれば苦痛を受けないはずはない(引用)」のだ。
著者いわく「動物園廃止論は現在の日本ではまだまだ新奇な風説と受け止められているが、欧米ではすでに確立した有力な一学説である」という。
また、動物園は「歴史的役割を終えた遺物」であり、「今後は子供を動物園に連れて行くのではなく、ライオンやトラのような動物は本来人里離れた野生の地にあってこそ本当なんだと伝えて、優れたドキュメンタリー作品をみせるというような教育方法に転換されていくべき」ということだ。

これからの保育園での動物園との付き合い方も、すぐに転換することは難しいとしても、きちんと倫理観に向き合って、捉え直すべきであると思った。

また、それ以上に大きな観点は肉食だ。保育園では園で調理した給食を子どもたちに提供している。主菜は日々変わるが、鶏、豚、魚で1:1:1。牛肉はほぼ使っていない。
もちろん、子どもたちの栄養を考えてメニューは作られているし、とても美味しい。子どもたちには、個人差もあるし希望があれば事前に減らすように伝えているが、基本的には好き嫌いなく全て食べきるように支援している。

さて、著者によれば「畜産をはじめとした商業的な動物利用それ自体が間違っており、最終的な廃絶を目指してできる限り縮減されてゆくべき」である。

これは、この文面だけ読むと極論に感じるけど、全編を通して読めば、至極真っ当。そうすべきだと感じる。

肉食・畜産においては、環境への悪影響、食糧問題も大きな観点として論じられている。しかし、ならば環境への負荷が少ない鶏に切り替えればいいのでは、というとそういうわけには行かないと話す。
なぜならば「食肉生産には環境負荷だけではなく、動物自身の倫理的取り扱いという、同じように重要な問題もあるから」だ。

ここで書かれた食肉生産の事例はどれも目を覆いたくなる事実である。
一例を引用する。
「現在のブロイラー(肉用鶏の品種)は極限的な品種改良によって驚くべき速度で急激に肥大化し、信じられないほど早く出荷できるようになっている。孵化から実に二月と経たずに成長のピークに達し、食肉加工されてゆくのである。(略)急激に巨大化した自らの上半身にか細い脚が耐えきれず、立ち上がっただけで自らの重みで骨折してしまう鶏もいる。そして人間であればまだ幼児にあたるような早い時期にその生命が絶たれる。」

そのストレスは甚大で、お互いに嘴(くちばし)で殺し合ってしまうため、あらかじめ嘴を切り落とすこともするそうだ。嘴には神経が集中しているため激痛が伴うが、コストを考えて麻酔などしない、と著者は話す。

このように「虐待的な飼育が常態化している」食肉生産を経て、届いた肉を調理し、子どもたちに給食として提供する。
おいしいハンバーグやからあげ、カレーに入ったお肉を子どもたちは美味しいと言って食す。

ぼくはそばにいる大人として、子どもたちと食卓を共にする。
コロナのため少しだけ離れたその席でひとり、肉の生産現場をイメージしながら、ごめんね、と思いながら肉を食べている。

楽しい食卓だから、子どもたちにそれを共有することは、当然だけど、しない。

子どもたちは、目の前の加工された料理と、どこか遠くで生きている豚や鶏をあたまの中で、どんなふうに結んでいるのだろうか。

食育というタイトルがつけられたスケッチブック。
一枚目にはポップな笑顔の動物たちのイラストがならぶ。ひらりとめくれば一瞬でこれまたポップな肉のイラストに変わる。

そんなポップな結びつきによってごまかされたイメージを、ぼくは保育園で子どもたちに植え付けてはいないだろうか。

いきものの命と、肉。食とぼくたちの命はそれぞれ結びついていて、その関係性は本当は強固なもののはずだ。

“命をいただく”という普遍的なことばは、商品として大量に生産される“パッケージ化された食肉”からは、感じにくくなってはいないだろうか。

保育園は、動物倫理の観点から見れば、実はけっこう残酷で、子どもたちの笑顔が狂気の沙汰に見えると書いた理由が少し理解してもらえたのではないか、と思う。

ただ、ぼく自身は実は肉食自体が全て悪だとは思わない。勉強になったのは「食とアニミズム」という研究プロジェクトのサイトだ。

https://food-animism.com/011

肉食のルーツである遊牧民の歴史を紐解く。そこには動物の命と自然と食と切っても切り離せない関係性があったと読み取ることが出来る。これは、肉食の本来の姿だろう。ぜひ一読してみてほしい。

このサイトの最後にあるように、
「問題はつまり、肉か野菜か魚か、という素材の問題ではなく、物質的に切り離された環境下で、大量に工場生産的に、食べものが製造されるという行為そのものにある(引用)」のだと思う。

ぼくたち自身が、パッケージ化された肉食生活をすぐに捨てられないように、保育園においても同様に、すぐには変えられないとは思うけど、もしかしたら社会のあり方の変容とともに、少しずつは変わって行くかもしれない、とも思う。

動物園も、肉食もその本質は同じだ。何なら、フェミニズムも、人種差別も、あらゆる差別について同じことが言える。

ぼくたちが友だちや他者に優しくできるように、その対象を出来るならば懸命に生きている動物たちにも広げて、同じように変わらずに優しくできるといい。

人間と動物、そこには本当は壁はないはずだ。
動物たちも命あって、心があって、考えて生きている。ぼくたちが思いやられるように、同じように思いやって暮らしていきたい。

社会のあり方の変容を待たずに、ぼく自身も、子どもたちとの関わりの中で、動物たちとの関わりについて、もちろん極端でない、できる限りバランス感覚を保ったかたちで、優しさで包み込むように伝えていきたいと思う。

その繰り返しが、みんなに優しくあれる社会を作っていく。

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