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意味を答えられる必要はあるか

コテンラジオの配信でヤンヤンさんが、歴史の勉強会をしていたときに、開催する理由を問われたときの話を聴いた。

理由を問われても明確に答えられなかったことに、モヤモヤしたが今は理由なんて必要ないんじゃないかと言われていた。

やる理由があったほうが、共感得られたり物事を進めやすくなることも多い。

ただ、理由がなくてはならないというのは、息苦しくなってしまうときもあるなと感じる。

生きる理由に問うこと

荒井さん著『まとまらない言葉を生きる』のなかでこのような言葉を紹介されていた。

ちょっと長めに引用したい。

障害があろうとなかろうと、人は誰しも「自分が生きている意味」を簡潔に説明することなどできないと思います。「自分が生きる意味」も、「自分が生きてきたことの意味」も、簡略な言葉でまとめられるような浅薄なものではないからです。  
私自身、「自分が生きる意味」について、心の中で思い悩んだり、大切な人と語り合ったりすることがあります。自分の生きがいについて、誰かに知ってほしくて、その思いを発信することもあります。  
しかし、私が「生きる意味」について、第三者から説明を求められる筋合いはありませんし、社会に対してそれを論証しなければならない義務も負っていません。  
もしも、私が「自分の生きる意味」について論証しようとして、うまく論証できなかったとしたら、私には「生きる意味」がないということになるのでしょうか。そんな理不尽な論証を求められたとしたら、私はそれを暴力と認識します。

『まとまらない言葉を生きる』荒井裕樹著

きっと論証できないことのほうが多い。

わかったつもりになっていたり、話せていたとしても、どこかで聞いた言葉をそうだと思い込んでいたりする。

だから、話せるべきであるは手放したほうが、そして求めないほうが生きやすくなると今は思う。

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