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鬼ヶ島

 むかし、むかし、大むかし、浩々たる海原に、大きくも小さくもない孤島がぽつんと浮かんでいた。
 空から見下ろすと米粒のような形をしたその島は、東は断崖絶壁の岩山で、西は深い入江があった。名を鬼ヶ島という。
 ご存知の通り、そこには鬼が棲んでいた。
 鬼は元来、死者の怨霊やら伝説上の神やら妖怪やらと一緒くたにされた存在だが、ここではそんなことはどうでもよろしい。とにかく鬼がいたのだ。
 鬼は皆一様に姿も性格も醜いという印象を持つ者も多いかもしれないが、そういう訳でも無い。
 紅色の肌の鬼は筋骨隆々で腕力が強く、エラが張った大きな顔には鋭い牙が生えていて恐ろしい印象を受けるが、心根は優しくて働き者の奴もいるし、呉須色をした鬼は手先が器用な上に頭脳明晰で生真面目な性格だ。
 黄土色の鬼はいつも酒を飲み、口笛を吹いてばかりいる呑気な奴だが、キリとした目元と尖った顎は鬼女達をいちころにさせる程の魅力を持っていた。
 他にも緑青の鬼は風流を好み、黒檀の鬼は芸術を愛していた。
 そんな鬼達のいる鬼ヶ島は薄暗く岩場に囲まれていて、常に荒波が打ち付けているように思われているようだが、それもまた違う。
 海岸には椰子の木が生い茂り、その根元には色とりどりの花が咲き乱れているし、島の周りは美しい珊瑚礁に囲まれている。
 朝には目が眩むほど明るい太陽が燦々と輝き、昼になれば雲一つない青空が広がり、夜になると大きな月と満天の星がこの孤島を照らす。それはもう、極楽浄土のように素晴らしい場所なのだ。
 そんな楽土に生を受ければ自ずと鬼達は争いごとを嫌い、血が流れるような喧嘩なんて一度もした事がない。
 あるとすれば西側の集落に棲む若夫婦の痴話喧嘩くらいなものだろう。
 鬼ヶ島に住む者達は皆仲が良く、鬼の女衆は朝になると洗濯を口実に川へ出掛けては、そこでお隣の若旦那は色男ねとか、あの奥さん素敵よねなどと世間話をするのだが、男衆の方はと言うと漁に出たり畑仕事をしたりして忙しく働いている。だからといって島の暮らしは決して退屈ではない。

 東の集落にある一際大きなお屋敷にも、風流を愛する一人の鬼が住んでいた。
「弥勒や、そこにおるかえ。」
 屋敷の一室で、木蘭肌に赤茶けた髪を後ろで束ねた一角鬼――妖山(ようざん)は、縁側に座って空を見上げながら穏やかに呟いた。
 すると、「ここにおります」と返事が返ってくる。声の主は弥勒(みろく)という名の青年であった。
 彼は、人で言うところの二十歳ほどの見た目をしており、額には先の丸い二本のツノがあるもののそれ以外は普通の人間と何ら変わりはない。
 彼は物腰柔らかく穏やかな性格をしているが、何よりも変わっているのはその髪の色だった。
 白銀に輝く髪色は鬼の中でも珍しく、彼の場合は光を浴びると更に美しく輝く。その為か、彼の周りには常に沢山の女が集まってくるのだが、弥勒自身は特に女性に興味はなく、いつも主人である妖山に付き添っているだけだった。
「弥勒よ、今日も空は青いか。」
 妖山がそう言うと、弥勒は「はい」と答えてから続ける。
「空は露草の花弁のような鮮やかな青色です。」
「ほう……ならば、今日も平和だ。」
 妖山は目を細めながら満足げに微笑んだ後、再び空を見上げた。
 鬼の中でも優れた容姿を持つ妖山は、怒りという言葉を知らないといった様子で、常に笑みを絶やすことはない。
 だか、眩しいように閉じられた瞼の下にある瞳は満月の如く白く、瞳孔もまた色褪せて何も映してはいなかった。彼は盲目なのだ。
「何をお考えですか?」
「うむ……。この鼻腔をくすぐる花の香りの正体を考えておったところよ……」
 鼻をすんすんと鳴らしながら、妖山は答える。そして暫く黙った後にまた口を開いた。
「弥勒よ、詩を思い付いたぞ。」
「それは良いですね。今、筆と紙を持ってきましょう。」
 弥勒が立ち上がり部屋から出ると、直ぐに戻ってきた。手には筆と和紙を持っている。
 それを机の上に置くと、彼は懐に手を入れ小さな小瓶を取り出した。中には墨汁が入っている。
「では、お願いします。」
「うむ、任せよ。」
 妖山は小さく笑うと、こほんと咳払いをして言った。
「花々咲き乱れる桃源郷の如し庭にて 我が鼻に香るのは愛しき君の残り香か。さすればこの胸に抱く思いは 一体なんであろうか。」
 弥勒は妖山の詠む詩を紙に認めながら、感心したように「お見事でございます。」と何度も首を縦に振った。
「相変わらず、素晴らしい出来栄えです。流石は妖山様、鬼ヶ島一の詩家と呼ばれるだけのことはあります。」
「はっは、褒めても何も出ぬぞ。」
 妖山は愉快そうに笑いながら、扇子を広げて口元を隠した。
 鬼は唄や踊りなどの娯楽を好み、その腕前を披露することも少なくない。中でも、妖山は目が見えなくとも、その美しい声で歌えば聴く者を魅了し、舞う姿は神々しくさえあった。
 そんな彼に、詩を詠ませれば右に出る者はいないと言われている。
 弥勒はそんな彼の詩を紙に認める役を担っているのだ。
「それにしても、お前が詩を書き留める時の筆の音はとても心地が良い。まるで天女の羽衣が宙を舞っているかのような軽やかな音だ。」
「それは、光栄に存じます。」
 弥勒が恭しく頭を下げると、妖山は「相変わらず固いの。」と言って苦笑した。
「まあよい。次はお前の番じゃ。何か面白い話でも聞かせてくれ。」
「畏まりました。」
 それから弥勒は、鬼ヶ島の西にある海岸で、最近起こった出来事を話し始めた。
 妖山は瞼を閉じながら、静かに耳を傾けている。西の集落に住む若い夫婦の話が終わると、妖山はふっと笑って言った。
「なるほど。夫婦喧嘩とは、まこと恐ろしいものよな。」
「えぇ、全くです。」
 弥勒は深く相槌を打つ。
「ところで、弥勒よ。」
 妖山が改まった口調で弥勒の名を呼ぶと、弥勒はすぐに姿勢を整えて「はい。」と返事をした。
「私は、目が見えない。それ故、この集落から外へ出た事が無い。」
「はい。」
「だが、外の世界を見てみたいと思う気持ちはある。」
「はい。」
「そこでだ……弥勒よ。私と共に、海の見える場所まで行ってはくれまいか。」
 妖山がそう言うと、弥勒は少し驚いたような顔をしてから「勿論でございます。」と答えた。
「妖山様が望むのであれば、何処へなりともお供致します。」
 弥勒の言葉に、妖山は嬉しそうに口角を上げた。
「ありがとう。弥勒、礼を言う。」

 二

 盲目の鬼、妖山とその付き人である弥勒は、鬼ヶ島の西側にある入江に来ていた。
 そこは珊瑚礁に囲まれた美しくも静かな場所で、波の音が聞こえる程近くに海がある為、とても居心地の良い場所だった。
 妖山は弥勒に支えられながらゆっくりと歩き、やがて砂浜へと辿り着いた。
 すると、妖山は弥勒の手を離してその場に座り込み、両手を砂の上についた。着物の裾が汚れるのも気にせず、そのままの状態で動かない。
 弥勒は彼の意図が分からず困惑したが、取り敢えず隣に座ってみる事にした。
 暫く沈黙が続いた後、妖山は弥勒の方を向いて口を開いた。
「弥勒よ、此処は本当に良い所だ。塩と磯の香りがする。」
 そう言って微笑んだ後、彼は続けた。
「弥勒よ、お前は私が盲目である事をどう思う。」
 突然の問い掛けに、弥勒は戸惑いながらも答えた。
「正直申し上げまして……お気の毒だとは思います。しかし、それ故に視覚以外の感覚が研ぎ澄まされ、他の鬼達よりも優れている部分もあるのではないでしょうか。」
 弥勒がそう言うと、妖山は満足そうに微笑んだ。
「そうだ。その通りだ。だからこそ、私はこの盲いた目を恨んだ事は一度たりともない。むしろ、感謝しているくらいだ。」
 妖山は穏やかな笑みを浮かべたまま、続ける。
「私の目は見えぬ代わりに、この鼻と耳は常人より遥かに鋭い。だから、この世の全てが手に取るように分かる。」
 弥勒は黙って妖山の言葉に耳を傾けていた。
「例えば、お前が今どんな表情をしているのか、何を考え、何を思っているかさえも全て分かる。」
 妖山は弥勒の顔を見つめながら、悪戯っぽく笑った。
「お前が今、動揺していることもよく分かったぞ。」
 妖山はくすりと笑うと、弥勒は困ったように頭を掻いてから言った。
「流石ですね……。仰る通りです。」
 弥勒の反応を見た妖山は再び笑うと、「お前は嘘をつくのが下手くそなのだ。」と言った。
 そして少し間を置いてから、妖山は静かに語り出した。
「私は生まれつき目が見えなかった訳ではない。幼い頃はちゃんと目が見えていたのだ。」
 妖山は懐かしむような声で話を続ける。
「だが、ある時を境に視力を失った。原因は分からない。ある日、急に目が痛くなり、開けられなくなった。」
 妖山はそう言いながら、瞼を閉じた。長い睫毛が海風で揺れている。
「最初はただの病気かと思った。医者にも診てもらったが、原因は不明。病に冒されている訳でもないらしい。」
 弥勒は何も言わず、悲しげな顔で妖山の話を聞いている。妖山はそれを察し、励ますように言った。
「心配はいらぬ。今はもう、慣れたものだ。」
 妖山はにっこり笑って弥勒の手を探り当てると、そっと握る。弥勒は安心した様子で息を吐きながら「それは良かったです。」と呟いた。
 妖山は弥勒の温もりを感じながら、話を続けた。
「それからというもの、私は暗闇の中で生きてきた。」
 妖山は瞼を開き、水平線の向こうを眺める。
「光の無い世界は恐ろしいものだった。」
 弥勒はその言葉を聞き、静かに俯いた。ある日突然、世界が黒に塗り潰された時の恐怖は計り知れない。弥勒には想像する事しか出来なかったが、それでも胸を締め付けられる程の苦しみを感じた。
 妖山はそんな弥勒の様子に気づく事なく、話し続ける。
「光を失ってからの日々は、まるで地獄のような毎日だった。些細な音でも、気配でも、匂いでも、空気の流れでも、私は何かしらの異変を感じる事が出来るようになった。それがどれだけ恐ろしかったか……お前に分かって貰えるだろうか。」
 妖山は弥勒の手を強く握りしめ、懇願するように問いかけた。弥勒は少しの間考えた後、ゆっくりと口を開く。
「私は、妖山様のお気持ちを完全に理解することは出来ません。」
 弥勒は真っ直ぐな瞳で妖山の目を見ながら、はっきりと答えた。
「ですが、貴方がどれほど苦しんでこられたのかは分かりました。」
 弥勒はそう言うと、妖山の手を優しく撫でた。細く筋張った手からは、微かに震えが伝わってくる。
「妖山様、私は貴方の目となってこの世界をご覧にいれましょう。この目で見たもの全てをお伝え致します。」
 弥勒は妖山の前に改めて膝まずき、恭しく頭を下げた。
「私は決して、この手を離しませぬ。」
 妖山は弥勒の言葉を聞くと、嬉しそうな笑顔を見せた後、小さく首を横に振った。
「ありがとう、弥勒よ。お前がいれば、私は大丈夫だ。」
 妖山は弥勒の肩に手を置き、彼の顔を覗き込むようにして微笑んだ。
「しかし、私の為に無理はするでない。」
 妖山はそう言うと、弥勒の頬を指先で軽く突いた。弥勒は「いたっ」と声を上げてから苦笑いをする。
「無理など……私は貴方のお側に居られるだけで幸せなのです。」
 弥勒が照れ臭そうに答えると、妖山は満足げに微笑んで、「そうか。」とだけ言った。

 三

 鬼ヶ島の浜辺では、妖山と弥勒が穏やかな時間を過ごしている。
 二人は砂浜に座り、波の音に耳を傾けていた。時折、潮風に乗って磯の香りが運ばれて来る。
 すると、妖山が何か異変を感じ取ったように顔を上げた。
「どうされました?」
 弥勒が不思議そうに尋ねると、妖山は眉間にシワを寄せながら答えた。
「妙だ……。火薬と血の匂いがする。」
 妖山は立ち上がり、鼻をひくつかせながら辺りを見回す。弥勒も同じように嗅覚を研ぎ澄ませたが、何も感じられなかった。
「花火と魚を捌いた際に出る血の匂いでは……。浜辺ではよく子供達が遊んでおります故。」
 弥勒がそう提案するも、妖山は納得していないようだった。
「いや、違う。これはもっと生臭い……」
 妖山がそこまで言った時、突然、海の方角から悲鳴が聞こえた。
 弥勒は咄嵯に妖山の腕を掴み、海から離れる方向へ走り出す。
「妖山様!此方へ!」
 弥勒は叫びながら、妖山を引っ張って走る。
「あぁ、分かった。」
 妖山は弥勒の行動の意図を理解し、大人しく付いて行く。
 二人が岩陰に隠れると、先程までいた場所から金属音や怒号のようなものが響いてきた。
 弥勒は耳を澄まし、音の出所を探る。
「妖山様、あれを……。」
 弥勒は妖山に小声で呼びかけると、彼はすぐにその方向を見た。
 そこには、桃の絵が描かれた旗を片手に持った一人の男がいた。男は腰に刀を差しており、もう片方の手には日本一と書かれた扇を持っている。
「進め!進め!鬼という鬼は見つけ次第、一匹残らず殺してしまえ!」
 男の掛け声と共に、飢えた目をした犬やずる賢そうな猿、そして赤い顔が特徴的な雉が一斉に襲いかかってきた。
「やはり危険です、妖山様。あれは噂に聞く、野蛮な人間という種族でしょう。気付かれぬうちに集落へ帰りましょう。」
 弥勒は不安げな表情を浮かべながら、妖山の顔を見る。
「うむ……そうだな。」
 妖山は弥勒の提案を受け入れ、その場を離れようとした。
 だが、それを遮るように、目の前に一匹の犬が飛び出して来た。唸り声を上げながら、こちらの様子を伺っている。
 弥勒は素早く腰に携えていた刀を構えると、犬に向かって構えた。
「そこを退け。さもなくば、痛い目に合うぞ。」
 弥勒は威嚇するように低い声で言ったが、犬は一向に退く気配を見せない。それどころか、牙を剥き出しにして飛びかかってきた。
 主人を護らなければ、と弥勒は咄嗟に判断し、妖山を庇いながら後ろに飛び退いた。しかし、足元は大きな石がごろごろと転がっており、二人は体勢を崩してしまう。
 弥勒は地面に倒れ込みながらも、なんとか妖山を護ろうと覆い被さる。
「弥勒、危ない!!」
 妖山は叫ぶと同時に、弥勒の身体を押し退けた。弥勒は妖山の勢いに負け、そのまま後ろに倒れる。
 顔を上げた時にはもう遅かった。
 犬は妖山の首元に噛み付き、鋭い爪で背中を切り裂いていた。戦う術を持たない妖山は為す術なく、犬に組み敷かれ、首筋に牙を突き立てられる。
 妖山は苦痛に顔を歪め、抵抗しようと手足を動かすが、力が入らないのか、ただ空を切るだけだった。
 弥勒は急いで起き上がり、犬を引き離そうと駆け寄ったが、今度は桃印の旗を掲げた人間の男が弥勒の前に立ちはだかった。
「愚かな人間よ。」
 弥勒は怒りに満ちた目で男を睨みつける。
「貴様らは我ら鬼族を滅ぼすつもりか。我々が一体何をしたというのだ。」
 弥勒は震えた声で問い掛けるが、男は怯むことなく答えた。
「何を言っているのだ、お前達は鬼だろう。全ての罪悪の元凶である、忌まわしき存在だ。」
 男はそう言うと、弥勒の腹を思い切り蹴り上げた。
 弥勒は衝撃に耐えきれず、その場に崩れ落ちる。
「鬼はこの桃太郎が退治する。」
 男はそう言うと、持っていた旗を振りかざし、弥勒の頭を目掛けて振り下ろした。

 四

 あらゆる罪悪の行われた後、鬼ヶ島の酋長は生き残った数名の鬼達と共に桃太郎と名乗る男の前に降参の意を示した。
 楽土であった海岸沿いや竹林、森などには無数の屍が転がり、花の甘い香りや鳥達の鳴き声は消え失せ、鬼ヶ島は鉄臭さが漂う地獄と化した。
 桃太郎は鬼の酋長に財宝と人質として鬼の娘を要求した後、鬼ヶ島を後にした。
 鬼達は泣き叫びながら、家族や愛する人の名前を叫んだが、誰一人として助けに来る者はいなかった。
 鬼ヶ島の平和と安寧は、こうして終わりを迎えたのだった。
 弥勒は妖山の血が染みた砂の上で、うつ伏せになって倒れている。顔をそちらへ向ければ彼がいるのだが、どうしても顔を上げる事が出来なかった。
 ただただ、涙が溢れて止まらなかった。
 自分が側に居ながら、彼を守れなかった事への後悔と、妖山の命を奪った桃太郎達に対する憎しみが心の中で渦巻き、吐き気すら覚えた。
 弥勒は嗚咽混じりに何度も妖山の名前を呼んだが、返事はない。
 妖山は死んだ。
 弥勒はそう確信すると、声を上げて泣いた。砂が口に入ってくるが、気にする余裕もなかった。
 妖山は弥勒にとってかけがえのない存在であった。
 弥勒は妖山の為なら何でもするつもりだったし、どんなに辛い事でも耐えられる自信があった。
 だが、妖山の死だけは受け入れられなかった。
 零れ落ちた涙はやがて砂に染み込みその色を変える。
 弥勒は砂浜に沈んでしまった鉛のように重い身体をゆっくりと起こした。そして、弥勒は妖山の亡骸に這うようにして近付くと、彼の瞼を優しく閉じさせた。
 あれ程に酷い傷を負いながらも、妖山の顔は穏やかだった。弥勒はそんな妖山を見て、また涙を流した。
「帰りましょう、妖山様。」
 弥勒は妖山に声をかけると、眠りについてしまった彼を背に担ぎ、歩き出した。
 砂に足を取られながらも、歩いた。
 途中、何度か転びそうになった。それでも必死に立ち上がって前に進んだ。
 屋敷に妖山を連れ帰らなければ。
 弥勒はそれだけを考え、歩みを進めた。
 しかし、弥勒がいくら頑張っても、背丈のある妖山を背負って歩く事は叶わなかった。弥勒は力尽き、遂には膝から崩れ落ちてしまう。
 屋敷のある集落まではまだ距離がある。それなのに弥勒の脚は震え、殴られた頭からは血が流れていた。正直、限界である。
 弥勒は妖山を一度地面に寝かせると、自分の頬を両手で強く叩いた。
「私は妖山様の従者だ。この程度の事で弱音を吐いてどうする。」
 弥勒は自分に言い聞かせるように呟くと、再び妖山を背負い、よろめきながら立ち上がった。
 息も絶え絶えになりながらも、妖山を背負い続けた。
 膝が擦り剥けようが、肺が潰れそうになろうが、弥勒は妖山を背負う事を決して止めようとはしなかった。
 背中に感じていた体温は段々と夜風に吹かれ冷たくなっていく。まるで氷を背負わされているような感覚に、弥勒は恐怖を覚えた。
「妖山様……お願いです。目を覚まして下さい……。」
 弥勒は懇願するように言ったが、妖山は答えない。
 弥勒は泣きそうになるのを堪え、歯を食いしばった。妖山が死んだという事実を改めて実感し、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
 だが、弥勒は足を止めなかった。
 集落に着いたら、すぐに妖山様を弔ってあげなければ。
 その想いだけが、弥勒を突き動かしていた。

 五

 桃太郎に連れ去られた鬼の娘が逐電した。
 それを受け、鬼の男衆は桃太郎に復讐すべく、武器を手に取った。海を渡り、幾度となく桃太郎達が住む島へ攻め入ったが、結果は惨敗。
 鬼達は争い事に慣れていない。そのせいか、桃太郎と間違えて猿を締め殺してしまう始末である。
 しかし、鬼達は諦める事なく戦いを続けた。自分達の平穏を一日にして奪った男を許す訳にはいかないのだ。
 弥勒もまた、鬼族の一人として、桃太郎達への怒りを募らせた。
 弥勒は妖山を屋敷の裏手にある庭の梅の木の下に埋葬したのち、桃太郎討伐の準備を始めた。
 他の鬼達がやたらめったらに桃太郎達を攻める中、弥勒は冷静に計画を立てた。一手で確実に桃太郎達を倒す為である。
 弥勒は一人、木の腐りかかった小舟に乗り、鬼ヶ島を出た。
 目指すは鬼ヶ島の南側に位置する大きな島で、そこに桃太郎の住む村があると聞いた。
 弥勒は櫂を使い、船を漕いだ。
 風は生温かく、波は荒い。
 弥勒は船酔いと闘いながら、ひたすらに漕ぎ続けた。
 やがて船は目的の島に辿り着くと、弥勒は一旦上陸し、近くの茂みに身を潜めた。
 鬼ヶ島とは打って変わり、静寂に包まれた小さな島は、弥勒の心を落ち着かせた。
 弥勒は鬼ヶ島を出る前に買っていた瓢箪の水を飲み干すと、腰に下げていた頭巾で角を覆い隠し、人間に化けた。
 それから、懐に忍ばせておいた笛を手に取った。これは亡き妖山が生前使っていた物であり、弥勒に譲られたものだ。
 弥勒は深呼吸をし、気持ちを整えると、ゆっくりと笛を口に当てた。肺に溜めた空気を全て吐き出す勢いで吹くと、辺りには美しい音色が響き渡った。
 弥勒の吹き方は妖山とは全く違うものだったが、鬼ヶ島の民の中でも優れた笛吹きであった。
 音は小鳥が囀ずるように軽やかに、それでいて力強く、弥勒の心を表したかのように繊細だった。
 悲しみや怒り、苦しみといった感情を押し込めた、清らかな旋律。
 弥勒は何度も繰り返し曲を奏でた。その音は忽ち桃太郎の棲む村へと伝わった。
 村人は一様にその音色を耳にすると、ばたりばたりと倒れていく。すうすうと穏やかな寝息を立てる者もいれば、泡を吹きながら悶える者もいた。
 曲が終わる頃には日が暮れ、月が顔を出していた。
 弥勒は曲が終わると、そっと笛を仕舞い、立ち上がる。
 そして、倒れた村人の間を縫うように歩きながら、ある屋敷を目指した。
 その家の戸を開けると、そこには一人の男が畳の上で横になっていた。
 弥勒は静かに男の側に近寄ると、顔を覗き込んだ。忘れる筈もない、憎き相手だ。
「お前が桃太郎か。私の主人を殺した憎き桃太郎か。」
 弥勒がそう言うと、男は薄らと目を開いた。そして、口を開く。
「あぁ、そうだとも。私の名は桃太郎さ。」
「そうですか……。ならば、私は貴方を殺します。」
 弥勒はそう言って、無抵抗な桃太郎に馬乗りになると、首に手をかけた。弥勒は桃太郎の首に爪を食い込ませると、力を込める。
 しかし、桃太郎は微動だにしない。
「何故抵抗しない。」
 弥勒は不気味に思い、桃太郎に尋ねる。
「殺したければ殺せばいい。私は鬼の仇討ちにはもううんざりなのだ。」
 桃太郎はそう言い残して、目を閉じた。
 弥勒の手から力が抜け、だらんと垂れ下がる。
 弥勒は理解出来なかった。
 自分が今迄してきた事は一体何だったのか。
 自分の主である妖山は、ただ「鬼ヶ島の鬼を征伐したいという志」の為に殺されただけなのか。
 弥勒は力無く立ち上がり、魂の抜け殻となった桃太郎を見下ろした。
 仇を打った。妖山の仇を討ったのだ。
 だが、弥勒の心には何も響かなかった。
 桃太郎を黄泉の国に送り届けたところで、妖山が生き返る事はない。
 それに、妖山はこんな事は望んでいなかったやもしれない。
「復讐ほど醜いものはない。弥勒よ、そんなものに心を奪われてはいけない。」
 妖山ならば、きっとこう言っただろう。
 弥勒は自分の行いを悔いた。
「妖山様……。」
 弥勒は涙を流しながら、小さく呟いた。
 涙ははたりはたりと畳に落ちていき、やがて染み込んでいく。月光に照らされた両手は血に染まっているように見えた。

 六

 穏やかな波の向こうの孤島は今日も青々として輝いている。
 西の集落では若夫婦が痴話喧嘩をしている。南の集落からは子供達の笑い声が聞こえる。
 鬼ヶ島に住む人々は再び訪れた平穏を噛み締めていた。
 東の集落にある屋敷では、一本の梅の木が春の知らせを告げる花を咲溢している。
 その梅の木の下で花見をするかのように、墓石が二基並んで置かれていた。
 一つは美しき詩人の、もう一つは勇敢なる戦士の眠る墓であった。春風が吹けば、梅の花びらがふわりと宙を舞い、寄り添うように並べられた二つの石の上に落ちた。

 それはまるで、二人の死を悼んでいるようでもあった。

 終

❀あとがき❀
皆さま、如何お過ごしでしょうか。
本作は芥川龍之介が執筆した『桃太郎』に着想を得て、書きました。
桃太郎に征伐された鬼はどのような生活を送っていたのか。後に残された鬼達はどのように暮らしていたのか。それを想像しながら執筆しました。

私の頭の中の世界をぶつけた作品ですので、およよ?と思う部分もあるかもしれませんが、楽しんで頂けたなら幸いです。
それではまた別の作品でお会いしましょう。
ありがとうございました。

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