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月のはなし【短編小説】

 鉄橋を渡り終えた電車が緩やかに、滑らかにホームへと吸い込まれる。さほど混みあってもいない電車を降り、改札を潜る。とっぷりと暮れた空にはもうすぐ真ん丸になるであろう少しだけ歪な白い月が浮かんでいた。

 ああ、と、漏れてしまう声を飲み込んで、空を見上げる。
 あの月の向こうに、彼女はいるのか。儚くも強く生きた彼女は、あの場所で笑っているのだろうか……。

 ゆっくりと歩きながら、同じように動く月を追いかける。

 死んだ人間が行くのは天国か、地獄。それとも輪廻という都合のいい解釈で再びの出会いに思いを馳せるべきなのだろうか…。誰にもわからない場所なら、初めからないも同じことではないか、と、くだらない答えを頭の中で繰り返す。
 細い路地に入ると、月の姿は古びた住宅の陰に隠れて見えなくなった。

「善と悪なら、善をとるでしょう?」
 私の背と同じくらいのハクモクレンがそう呟く。
「世の中にあるのはわかりやすく善と悪ではないし、どちらかといえば答えがないものばかりだわ。しかも善悪の判断すら曖昧で、良かれと思ってやったことをなじられて攻撃されてボロボロになっても誰も助けてくれなくて、挙句いつの間にか悪であることにされちゃうことだってあるのよ?」
 早口で答えると、ハクモクレンはその枝をぶるっと震わせ、
「おお怖い!」
 と言って黙った。

 私はその場をやり過ごし、路地のさらに奥へと足を進める。可愛い赤い屋根のお宅には、庭先に沢山の鉢植えが置いてある。その陰からのっそり顔を出したのはゴージャスな毛並みを持つ半野良のさび猫だった。
「無くしたもののことをいつまでも考えてくよくよ悩むなんて、バカのすることよ」
 そういうと、ブロック塀の上まで軽やかにジャンプして見せる。ゆっくりとした仕草で顔を洗い、最後にこちらを横目で見た。
「人間はつまらないことばかり考える。だから余計な争いもなくならないのね」
 馬鹿にするというよりは、同情するかのような言いっぷりだ。
「猫は後悔しないの? ああすればよかったんじゃないか、とか、こうしていたら今頃違う自分だったかもしれないのに、とか」
 尻尾をゆらりと動かしながら、猫。
「いつだって、どんなときだって自分は自分でしかないのよ? 例え途中で選択を変えていたとしても、あなたはあなたのままだし、でもそっちの道を行ったあなたとここにいるあなたは似て非なるもの。比べること自体ナンセンスよ」
 クァァァ、と大きな欠伸をし、猫は塀の上で器用に眠りについた。

 私は路地を抜け、少し広い場所に出ると改めて空を見上げる。少しだけ雲に隠れた白い月は、ただ何も言わず空に浮かんでいるだけだった。
 彼女がこの世を去ったのは、もう何年も前のこと。私にとって彼女は、友であり、尊敬すべき人であり、守りたい存在でもあった。相談もされたし愚痴も聞いた。優しすぎるが故に、生き辛い毎日に埋もれているような人だった。可愛くて、危うくて、なのに強くてシャンとしている。目まぐるしく変わるその印象のすべてが彼女の魅力でもあった。

 彼女は月のような人だ、と皆は言う。私もそう思う。
 暗闇を優しく照らす、月。
 日々、形を変え、色々な顔を見せる、月。

「愚か者だね」
 闇の中で黒い眼をぎょろりと向けたのは枯れ葉色のカマキリだった。
「愚か者って…私のこと?」
 少しイラっとして聞き返す。
「会いたいとか思ってるでしょ? そういうの、よくないよ~? 非現実的なこと考えすぎだよね、人間って」
 カマキリは首をひょい、と傾げながら矢継ぎ早に言った。
「世界にあるのは生か死か、この二つだけなんだよ? もちろん知ってるよね? それを自己都合で感傷的に捻じ曲げて、死んだ人に会いたいとか月の向こうにいるとか、正気?」
 責め立てるような口調でずけずけと物言うカマキリに、私は怒りを露にしながら言い返す。
「人間て、とーっても複雑に出来てるの」
(あなたたちほど単純じゃないのよ)
 後半は言葉を飲み込む。
 カマキリは、そんな私の考えを知っているかのように続けた。
「複雑って言葉は便利だな。何かを誤魔化すにはもってこいの言葉さ」
「別に何も誤魔化そうとなんかしてない」
「いいや、してるね。もやもやしている原因が何かわかっているのに、それを認めたくないからって現実逃避してるんだ。あんたは生きている。死ぬまでずっとね。それが答えだろ?」
 カマキリはそう言うと、更に続ける。
「俺はもうすぐ死ぬんだ。だからって悲観的になってもいないし後悔もない。生まれたから、生きた。死なないように努力したさ。そしてもうすぐ死ぬ。寿命でな。何の文句もない!」
 誇らしげに胸を張った。
「……寂しいとか、怖いとか、ないの?」
 私は小さい声で聞いた。
「もちろんあるさ! 生きてる者は誰しも、死を恐れるよ」
「そういう時どうするの?」
「どうもしない」
「え?」
「正しくは、どうすることも出来ない、かな。無駄に足搔いたり癇癪を起こしたりしないでただじっと待つだけさ」
「そう……」

 私はもう一度空を見上げる。雲は晴れ、月は優しく私を照らしていた。
「私、うまくいかないことを言い訳しながら生きてるのか」
 解決のために頑張るでもなく、とっとと諦めるでもなく、責任転嫁するみたいに関係ないセンチメンタル押し付けて自分を貶めて可哀想を演じて。
「でも人間ってそういう生き物かも」
 軽い気持ちで呟くと、不思議とスッと自分の中に落ちていくような感覚があった。
どう足掻こうが、生きていくしかないのだ。

「そういえば……」
 ふと彼女の笑顔を思い出す。
「楽しいこと、好きだったよね」
 彼女を思い出すとき、いつだって笑った顔だ。弱音を吐いても、なにかに悩んでいても、いつも最後は笑っていたように思う。
「そうだね。生きてくしかないんだね」
 弱音を吐いても、悩んでいても、それでも生きているうちは生きるしかないんだ。簡単で、難しいのが人間の『普通』なのかもしれない。

 私は月を見上げた。
 見えない日でも、月は必ず地球の近くに寄り添っているんだ。

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