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「差別ってなんだろう?」(2019.6.8 JOC連続講座)

これは、JOCカトリック青年労働者連盟の連続講座として行ったワークショップの内容を記事にしたものです。
講座用に作成したものですが、こうして記事にしてより多くの人にシェアしようと思った理由は、昨今のさまざまなニュースや論争の中で、差別に関して気になる話題がつきないことにあります。

「差別だと騒ぐより自己解決したらいいのに」と運動を揶揄する言葉、「差別者よばわりされた」と怒りを抱く人たち、「差別の意図はありませんでした」という謝罪の文句。

これらに違和感を持つ人も、そうでない人も、ご一読いただけたら、もしかしてちょっと何かのヒントになるかもしれません。

講座のサブテーマは
「差別は一人ではできない 差別は一人ではやめられない」
です。

【第一部】それって誰用?

第一部では、さまざまな画像を見ながら、そこに写し出された事象が「誰に向けて、誰のために作られているか」「無視されている人、いないことにされている人は誰か」を考えていくワークを行いました。

よく喩えに出されるのは、駅の自動改札機。ほとんどすべて右手で使う仕様になっていて、左利きの人だけでなく、けがや病気で右手が使えない人にとっても使用が困難なものとなっています。

マジョリティの誰かのためだけに物事や仕組みが作られ、誰かが無視されていることは、普段の生活の中で、意識されないレベルで数多く存在します。
ここでは、それに対して「変えるべきこと」か「しかたないこと」かなどの意見交換はひとまず置いて、まずは実際に起こっている現象を発見していくことをやってみよう、という主旨でワークを行いました。

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まず最初に提示した画像は、原子力発電所の分布図。東京電力の原子力発電所は、すべて東京電力の供給エリア外に建っています。
特定の国や地域が不利益を受けたり無視されたりする例は、インフラや、軍事利用、飢餓など、特に過疎地域・貧困地域で多く起こっています。

次に、渋谷のスクランブル交差点付近をさまざまな位置から撮影した画像。
人ごみや狭い道、段差のある道は、健康な時なら問題なく歩けても、心身にの病気や負傷、障害のある場合は困難な道となります。

次に提示した画像は、履歴書です。
ネット上にあったいくつかの履歴書記入例の画像を見ながら、「経歴に穴が開いてはいけないとよく言うよね」とか、「趣味・特技なんて書く必要あるのか?」とか、「健康状態という欄があるけど…これは『良好』以外のことを書いたら落とされるのか?」など、さまざまな指摘が出ました。

そして、さらに補足として紹介したのは、スライド作成の際に「履歴書」で画像検索をかけた時に、私自身初めて知って驚いた次の画面です。

白紙の履歴書ではなく、「記入例」の画像が多く出てきたのですが、その上位1列目がすべて男性の記入例でした。2列目の最後にようやく出てきた女性の記入例2つは、おそらく既婚女性をターゲットにした派遣サイトと、アルバイト情報サイトのものでした。

次の画像はこちらです。

これらは街中にある広告の、特に〈人物の写真を使っているもの〉を私自身が歩いて撮影してきたものです。

なるべく恣意性が出ないように目についたものとにかく全部撮ったのですが、単純に女性モデルの広告が男性モデルの広告より圧倒的に多かったのは、私も撮影して初めて気づきました。

また、男性モデルを採用している広告には、容姿だけでなく「面白さ」や「知性」で評価されている男性も複数起用されているのに対し、この日撮影できた女性モデルの広告には「女性の美しさ・可愛さを見せる」タイプの広告しかありませんでした。

ちなみに、撮影したのとは別日に、唯一女性で「面白さ」が評価されている人物の広告として渡辺直美さんのものを発見しました。
カラフルでおしゃれな渡辺さんを写したそれは、能力で評価されている女性の広告であることと、女性の美しさを見せることの両面を合わせた広告かもしれません。男性お笑い芸人の広告が「美しさを見せる」ことなどまるで求められていないような雰囲気との非対称性についても、考える必要があるのではと思いました。

この調査結果は、私たちが普段の生活の中で気づかぬうちにどういう情報にさらされているかを示していると思います。「女性は美しくあれ」というメッセージや、「女性は華やかで妖艶である」といった刷り込みが、私たちの日常には溢れているのではないでしょうか。
そこでは世間的な価値観の「美しさ」にコミットしない・できない・したくない女性がいないことにされ、無視されています。

それに関連して、講座の中で私は一つの問題提起をしました。

「女性は美しく」というメッセージや情報に対して「何が悪いの?」と思う人も世の中には多いかもしれません。
しかしこれらの事件の判決や世間の反応を見ていると、「妖艶な女性」のイメージがすべての女性に広げられた結果、「性的な魅力で惑わす女」と「惑わされる男」という歪んだイメージが、現実の性暴力の被害者と加害者にまで重ねられているのではないか…と思えてなりません。

さて、次に提示したのは戸籍についての法律をまとめたスライドです。
現行の制度では、結婚しようとする2人が婚姻届を出した瞬間に、片方が戸籍の「筆頭者」となり、片方が「配偶者」となります。
またほかにも、離婚後300日以内に産んだ子は自動的に元夫の子とされてしまう「嫡出子」問題や、国際結婚の場合は結婚相手が日本国籍(戸籍)がないので「配偶者」にならず欄外に記入されるといった、奇妙な現象があることを見ていきました。

そして一部の最後に提示したスライドがこちらです。

世の中のいかなる事象について考える時でも、「誰かが無視されているのではないか」という視点を持ってみると、見え方が変わってくることがあるのでは、と思います。

【第二部】権力を持ってるのは誰?

一部では、さまざまなシステムや構造が、「誰か」を想定して作られ、その中で無視される「誰か」がいることを見てきましたが、そういった、誰をより優遇し、誰を切り捨てるかを決められる力を持つことが、「権力」を持つということです。

権力を持っていると、さまざまな方法で他者を「支配」することができてしまいます。

サッサ・ブーレグレーン著の『北欧に学ぶ小さなフェミニストの本』(枇谷玲子訳・岩崎書店)には、権力を持っている人が行う支配の手口を指摘したノルウェーの女性政治家ベリット・オースの言葉が紹介されています。(以下は本から抜粋してスライドにまとめたものです)

これらを参考に、さまざまな場面で「誰が権力を持っているか」「どんな支配の手口を使い得るか」を見ていきます。

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最初は、日常の人間関係の中でも、ふとした時に権力差が生じる場合です。
何かに悩んで相談する人に対して、相談内容を笑ったり、「そんなことだからダメなんだ」と何かと文句をつけたりすることで、普段は対等な関係性であっても、支配の手口を使ってしまうことがあります。

また、たとえば親しい間柄の人たちの集まりに、1人だけニューフェイスが加わった時。
こういう場合には、わざと支配の手口を使っていじめようとしなくても、その場に慣れている人たちが無意識に新参者を無視してしまったり、孤立させてしまうということがよく起こります。
「支配の手口」はわざと使おうとしなくても、むしろ、意識して使わないように気をつけなければ、ついつい行使しがちなことでもあるのです。

続いて次のような場合。

これは、この状況に関して最も権力を持っている人はこの場にいないという例です。
深夜営業のコンビニが当たり前になっている状況を作った人も、深夜にしか買い物ができないような労働形態を作った人も、この場にはいません。そして、劣悪な労働状況で起こるトラブルに直に向き合わなければならないのは現場にいる人たちです。

権力を持っている人の姿が見えない事例は、さまざまな場面で日常的によく起こっています。
たとえばテレビ番組で、差別的な言葉が笑いのネタに使われていた時、視聴者が気付いて批判することもあります。しかし、表立つのは発言したタレントだけで、その番組を制作し、放送を決定した人の姿が出てくることはほとんどありません。

また、環境的な支配の手口もあります。

こうした環境に置かれた時、その人自身の属性によって、「怖い」「嫌だ」と思ったり、「被害に遭うかもしれない」と危機感を抱くレベルは、かなり違います。
講座の参加者からも、1の例に対して女性からは多く「気持ち悪い」と声が上がったのに対し、男性からは「最初は変に思うけれど、すぐ気にしなくなるかもしれない」という声が聞かれました。

面接の場となると、こうした環境を不快に思う気持ちはより強まりますが、第一部で紹介したように街には圧倒的に女性の写真広告が溢れています。
街全体が「女性の写真ばかり飾ってある部屋」のような状況になっていることは、どのような支配力を人々に行使しているのか…一考してみる必要があるのではないでしょうか。

【最後に】被差別者ではないけれど権力者でもない時

権力には、日常の中で誰もが行使し得る小さなものもあれば、たくさんの人の生活や生命までも左右する大きなものもあります。
多くの差別は大きな権力によって誰かが無視され、いないことにされることによって行われます。

そういう中で私たちはしばしば、差別される側ではないけれど、それを変えられる権力者でもないという立場に置かれます。

たとえば、
・原発のある地域の住民ではないが、原発を建てる場所を選ぶ権力はない。
・身体障害者ではないが、狭い道路を作り直す権力はない。
・女性でも性的マイノリティでもないが、制度や慣習を変える権力はない。

そんな時、「自分は差別するつもりはないのに、差別反対を訴える声に責められているように感じる」という人も、世の中には多いようです。

そこで、私はこんな図を提示します。

差別について語るとき、「差別する人」と「差別される人」といった、二項対立が想定されることが多いのではないでしょうか。
そして「差別をしていない」自分は関係のない部外者、となるのかもしれません。

私が考える差別の構造は、2者の対立ではなく、上記の3者の関係によって成り立つものです。3者といっても「権力」は人間ではない場合もあります。
この構造のどこかに誰もが必ず入っていると考えると、あらゆる差別において、無関係な人は誰もいないことになります。

そして、この3者のどこに属する場合でも、それぞれに選択肢があります。

大きな権力を持っているほど、差別構造をより深めることも、差別解消を推進することもできます。だから、世の中のいろいろな差別解消を目指すときに市井の人々は政府や省庁に訴えるのです。

「差別される人」も「差別されない人」も、すでに権力によって押し付けられている差別に対し、自分がどのような態度を取るかを迫られます。
差別を肯定してしまうのは「差別されない人」だけではありません。「差別される人」であっても差別を肯定することはあります。
女性でも女性差別を肯定する人はいるし、劣悪な労働環境でも頑張ることが「社会人の義務」と思い込んで体を壊しても働き続ける人もいます。

もしかしたら、差別を肯定すること・否定すること以外にも、差別に対して取る態度には、ほかの選択肢があるかもしれません。
大切なのは、自分が個々の差別問題においてどの立場にあるかを見極めることと、どの立場であってもその責任を受け止めることだと思います。

差別と関係ない人は誰一人としていない。そのうえで、あなたはどのように差別と関わっていきますか。
一人ひとりが自分にできることを考えてみるべきではないでしょうか。

*お知らせ*

JOC連続講座は7月もあと3回開催します。誰でも無料で参加できます。

次回は7月6日(土)は、7月20日(土)の講座と入れ替わり・変更になりました。宇井担当のテーマ『幸せってなんですか?』を行います。

巷に溢れる「幸せ」についてのさまざまな情報、歴史上の哲学者たちが語る「幸せ」などを見ていきながら、「幸せ」とは何か、「幸せ」と「欲望」の関係、「幸せになること」と「人間らしく生きること」などについてみんなで考え、それぞれに自分の答えを見つけていくワークにしたいと考えています。

ぜひお気軽にご参加ください。



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