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子どもたちは誘拐に憧れる

話題になっていた『幸色のワンルーム』という漫画を原作としたドラマが、テレ朝での放送が取りやめになり、大阪朝日放送のみの放送となったそうですね。

『幸色のワンルーム』テレ朝が放送中止 「誘拐肯定では」指摘受けたドラマ -HUFFPOST

この作品が批判されている経緯については、こちらのブログが詳しいので紹介します。

「幸色のワンルーム」は許されるのか~誰が彼女を監禁しているのか? -レインボーフラッグは誰のもの

私は商業化されてからの作品は読んでいないのですが、Twitterに掲載された漫画は覚えています。

朝霞市の女子生徒誘拐事件に対する、被害者を中傷する無責任な推測が、ネット上にもテレビにすらも流れ、それらに怒りを表明する声も多く、議論(といえるのかわかりませんが)が白熱していた矢先という印象が強く残っています。

その流れについては多くの人がすでに語っていますが、私が気になっているのは、私自身が過去の自分に照らし合わせても「こういう物語を10代の子たちは好きだ」とほぼ直感的に確信する、ということです。

これはなんというか…子どもは好きに違いないんです、こういうのは、としか言いようのない、ビビビと来てしまう感覚…

その感覚を説明できる材料は、萩尾望都『ポーの一族』を再検証している中で見つけられました。

ポーシリーズの最初の作品「ポーの一族」篇で、バンパネラの少年エドガーは、人間の少年アランを自分たちの仲間へ引き込もうと画策し、やがて家庭の不和に傷ついたアランはエドガーとともに永遠の世界へ旅立ってしまいます。
アランの居なくなった部屋に立ち「風につれていかれた…!?」と呟く執事のセリフも印象的です。

家庭環境で傷ついたアランが連れ去られるのとあいまって、私は「子鳥の巣」篇でのセリフをまた思い出します。
以前の記事でも紹介した一節。

「ねえ 世の中にはすこしばかり神経が細いために 育たない子どもがたしかにいるんだよ」

親の愛を信じられなくなった瞬間にこの世を去り、別世界へと旅立ってしまうアラン。幼い頃から孤独を味わい、〈天使〉の迎えを待ちわびてついには死んでしまったロビン・カー。

これは大人になってから読むと、大人に対し警鐘を鳴らしているように感じられます。
大人は「子どもは無邪気で悩みなどない」などとと思ってしまいがちだけれど、子どもというのは、ふとしたきっかけで「向こうの世界」にさらわれてしまうような存在なのだと。

しかし、子ども時代に読んだ読者の多くはきっと、「自分もエドガーたちに連れ去られてしまうかもしれない」という恐怖にふるえ上がったり、逆に「エドガーたちが迎えに来てくれないだろうか」と夢見たりしたんじゃないか、と思います。

彼らに迎えに来てもらうことを夢見る少女の姿は、本作中「リデル❤︎森の中」篇にも描かれています。
リデルは「人の世で生きられなくなった期間」だけエドガーたちの元に暮らし、しかしおそらく彼女自身の「ちゃんと人の世で大人になっていける性質」を見定められ、またおそらく、エドガーの愛によって、ポーの一族に引き入れられることなく人間の世界に返されます。

思えば、世界には昔からこのような、「異質なものに子どもがさらわれる話」があり、子どもたちには恐怖とともに不思議な憧れを与え、大人たちには警告を与えているように思います。

これは前述の記事で私自身が書いた文章ですが、

子どもという存在は、この世界において心細い存在です。

これは子どもはか弱いとか、子どもは純粋とかとは少し違う意味です。
子どもは大人が作り営んでいる人間社会、〈この世〉に、「まだ馴染んでいない存在」であると思うのです。

こう考えて子どもたちを見ると、彼らが「さらわれる話」に魅了される理由がわかるような気がするのです。

不幸な境遇の子どもに限らず、多かれ少なかれ、子どもたちにとってこの世界は居心地の悪い場所ではないかと思います。
それでもまだ小さいうちは、親の庇護を頼りにする気持ちが強いと思います。10代になって自立心が出てくる頃に、なんともいえぬ居心地の悪さ、どこか違う世界へ抜け出したい気持ちにもやもやと苦しんだ思春期を過ごしたという人は、かなり多いのではないでしょうか。

「子どもがさらわれる話」は、そんな気持ちを癒す効果があるように思うのです。問題になっている『幸色のワンルーム』も、しかり。

この『幸色のワンルーム』という漫画の作者はくり氏自身も、もしかしたら、「何かにさらわれてここではない場所に連れ去られたい」という子ども側の目線でこれを描いたのかもしれない…とすら思います。

しかし、ネット上で実在の被害児童である中学一年生に向けられた誹謗中傷にもとづく推測は、もっと歪な願望によるもので、女性の受ける性的被害が深刻なものである(女性差別が存在する)という事実を認めたくないがために、被害者の落ち度をなんとか見つけ出そうとする卑劣な言動です。

ところがその卑劣な願望から生まれたネット上の妄言の数々が、「さらわれたい子ども」の願望を満たしてしまうものにもなりえていた…というのが、この漫画が若い読者の支持を得た背景なのではないかと思うのです。
この作品に惹かれる若い・幼い読者たちを、私は否定することができません。かつては私もそんな少年少女であったからです。

ここで私は、現実世界で女子児童を誘拐する男たちや、漫画に描かれた「誘拐犯の青年」の心境について考えます。

彼らの多くもきっと、「ここではない場所に連れ去られたい」のではないか…と、私は思うのです。
そして彼らは、その願望を自分の力で支配できる弱い存在に託してしまう。無理やり連れ去った少女が、自分を違う世界へ連れて行ってくれる存在のように認識してしまう。

人間が大人にならなければいけないのは、「力を持ってしまう」からだと思います。その腕力や、権力、経験値によって、子どもを簡単に支配できてしまう力が身に付いた時、人は大人としての責任を負い、子どもを守らなければならない立場へと転換するのではないでしょうか。

『幸色のワンルーム』の原作者についても、ドラマの制作者についても同じです。多くの人に発信できる力を得た大人が、実際に子どもが被害に遭っている事件で自分の逃避願望を満たしていてはいけない。
それは、誘拐犯の男たちが女子児童を利用して自分の逃避願望を満たしたのと似た行為といえるでしょう。
それは、被害の再生産です。

昔から「子どもがさらわれる物語」は多くありますが、子どもをさらう者たちはほとんどが異質で不気味な存在として描かれ、彼らなりのルールで子どもを利用することはあっても、「子どもをさらうことで逃避願望を満たす現実の大人」が肯定的に描かれる物語は、この漫画のほかに見たことがありません。

もしも朝霞市の事件と無関係だと言い張るのだとしても、女児誘拐事件はその後も何度も繰り返されています。「女児に恋愛感情を抱き、盗撮し、誘拐した男」を肯定的に描くことが、大人が実在の被害児童に依存して逃避願望を満たす行為であることに変わりはないと思います。

過度に暴力的で非倫理的な表現の存在自体を、私は否定しません(制作現場での被害があった場合は除く)。しかしすべての自由は公共の福祉に基づいたうえで行使されるものです。つまり「他者に加害しない限りは自由」ということです。

テレビドラマのような公共性の高い場所では、かつて誘拐被害に遭った、または遭いそうになったことのある人々を、二次加害する可能性が多くあるのではないでしょうか。
この映像をどうしても発表するというのならせめて、R指定の販売ソフトのみのような形にしなければいけない作品なのではないではないかと、私は考えます。


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