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置かれた場所で炊きなさい|『バカロレアの哲学』裏メニュー|ウィーンまかない編

今回の哲学問題「他者の幸福を作ることができるか?」

『バカロレアの哲学』の裏メニューとして始まった「ウィーンまかない編」。本連載では、著者・坂本尚志さんのウィーンでの生活と、実際に出題されたバカロレアの哲学問題を引き合わせて記録していきます。

今回は、ウィーンでのお米事情と「他者の幸福を作ること」について。

5903バカロレア

ご飯があればなんとかなる

 24歳でフランスに留学したときは、見るものすべて珍しく、学食の山盛りポテトに狂喜し、スーパーでいろいろな食材を試していました。
 しかし、ウィーンではそうもいきません。子どもたちの嗜好に合わせて、おいしく食べてもらうことを第一に考えなければなりません。
 というわけで、到着してからしばらくはご飯を炊くことが多かったです。日本のお米と味は同じでないにしろ、ご飯があれば最低限のカロリーは摂れるので助かります。

 しかし、問題がありました。私たちがウィーンで住んでいるのは家具付きのアパートです。食器や調理器具も一通り用意されています。調理はIHクッキングヒーターで行います。
 炊飯器があるわけもなく、フランスでもそうしていたように、ご飯を炊くのにフライパンを使っていました。

 お米はミルヒライス(バニラ味の牛乳で柔らかく煮たお米のデザート。慣れるとおいしいです)用のお米を使っていました。小粒の短粒米で、しっかり吸水させるとふっくらと炊けます(お米の選択には白乃雪さんの漫画『白米からは逃げられぬ』が大いに参考になりました)。

ミルヒライス用のお米。スーパーで1キロ2.2ユーロ(約290円)程度で買えます。

ミルヒライス用のお米 スーパーで1キロ2ユーロ(約260円)程度

使えるのはIHヒーターとフライパンだけ

 クッキングヒーターの火加減にも慣れ、硬すぎも柔らかすぎもしないご飯が炊けるようになったころ、問題が起きました。いずれお話ししますが、家のトラブルが相次ぎ、一時別のアパートに避難するなど、最終的には引越しをすることになりました。今の家はウィーンで3軒目です(3月には4軒目!に移ります)。

 ご飯を炊く方法はどこでも変わりませんが、家具付きのアパートを移るときには、移動した先の調理器具を使わねばなりません。フライパンのサイズが微妙に違ったり、IHクッキングヒーターの機種が変わったりすると、炊き上がりにばらつきが出ます。うっかり吹きこぼしてしまうということもよくありました。

 仕方がないのでそれでも炊くしかありません。渡辺和子さんの『置かれた場所で咲きなさい』ではありませんが、置かれた場所で炊くほかはないのです。渡辺さんの言葉には勇気づけられる人もいれば、一種の呪いのように感じる人もいるかもしれませんが、私が置かれた場所には米とフライパンとIHしかないのです。

ボルドー留学で教わった「ツナ炊き込みご飯」

 ご飯があればなんとかなる、とはいっても、毎日白いご飯では飽きてしまいます。炊いて置いておくと、どうしてもパサパサになってしまいます。最初のうちは持ってきたカレールーでカレーを作ったりもしましたが、それよりはオーストリアで手に入る食材を使うメニューを主にすることに決めました。

 ピラフやチャーハンは子どもも喜んで食べますし、他には冷凍グリーンピースを使った豆ごはん、ツナ缶としょうが、にんじんを使った炊き込みご飯などを作りました。
 炊き込みご飯のレシピはボルドーに留学していたときに、日本人の友人から教えてもらったものです。

 少し油を切ったツナ缶としょうが、にんじんのみじん切りに酒(安い白ワインで代用しています)、適量の醤油で味付けをして炊くと、立派な日本の味になります。とくにおこげがおいしいので、最後に水気を飛ばしがてら強火で加熱します。ツナの油のおかげで冷めてもしっとりしています。

ツナ炊き込みご飯。オイルサーディンでもおいしいです。

ツナ炊き込みご飯 オイルサーディンでもおいしいです

 この炊き込みご飯はドイツやオーストリアの友人にも振るまい大好評でした。妻も気に入り、「大学をやめて炊き込みご飯屋を開業しよう!」と食べるたびに言っています。私は断固拒否していますので、開業の予定はありません。もしウィーンに炊き込みご飯屋ができたというニュースを見たら、そのときには何かがあったということです。

「他者の幸福を作ることができるか?」

 このように、環境の変化に抗してご飯を炊く日々を過ごしているわけですが、食べている家族はどうなのでしょうか。さいわいなことに大体はおいしく食べてくれています。おいしいものを食べることは幸福のひとつの形でしょう。

 しかし、何を幸福と感じるかは人によって違います。そして他者がどう考えているのかを正確に知ることは誰にもできません。
 今日は「他者の幸福を作ることができるか?」という問題を考えてみましょう。

 この問題では「他者」と「幸福」そして「幸福を作る」ということを定義しなければなりません。それから、問題を複数の問いに分解することが必要です。
 わたしたちは他者も同じように意識を持ち、考え、行動するという前提を知らず知らずのうちに持っています。しかし、他者の内面で何が起こっているかを真の意味で知ることはできません。他者とは私とよく似た存在でありながら、決して理解できない存在なのです。

 幸福の定義には様々なものがありますが、「欲望の完全な充足」として定義することも可能です。私たちは欲望が満たされたときに快楽を感じますが、それこそが幸福なのだ、という立場があります。これを「快楽主義」と呼びます。
 しかし、何に対して快楽を感じるかは人によって異なります。トマトが好きな人にはトマトを食べることは快楽ですが、そうでない人には苦痛にもなりえます。この意味では、幸福は主観的なものです。

 一方で、わたしたちは集団や社会の幸福について考えることもできます。そのときに幸福は、個々人の主観を超えた客観的なものとして考えられます。「最大多数の最大幸福」という言葉で知られる功利主義は、まさにこうした社会全体の幸福について考えることを目指しています。それは政治的選択の基礎でもあります。

 「他者の幸福を作る」とはどういうことでしょうか。それは、真の意味で理解することのできない他者の欲望を完全に充足させることだと言えます。しかし、どうやったらそんなことができるのでしょうか。私たちは自分の欲望についてもすべて知っているわけでもないのに、他者の欲望について知ることができるとは思えません。

 さらに、欲望は一度満たされてそれで終わりではありません。また新たな欲望が生まれ、それが満たされなければ人は幸福から遠ざけられることになります。
 集団の幸福についても同じです。さまざまな利害関心を持つ他者の集まりである社会において、「幸福を作る」ことは、個人としての他者の幸福を実現することよりもはるかに難しいように思われます。

 私たちは、他者にとっての幸福が何かを本当に知ることができるのでしょうか。仮に他者の幸福が理解できたとしても、どのようにそれを実現することができるのでしょうか。幸福を実現するための直接的手段を用意すべきなのか、あるいは他者が幸福を追求できる環境を整えることで、間接的に他者の幸福を作るべきでしょうか。それとも、他者が理解不可能な以上、他者の幸福のことなど考えなくてもよいのでしょうか。個人としての他者の幸福の実現と、集団としての他者の幸福の実現にはどのような違いがあるのでしょうか。
 結局のところ、他者の幸福を作ることはできるのでしょうか。

 ご飯を炊いているはずがバカロレアの問題に導かれて遠くまで来てしまいました。

 次回は、オーストリアの普段の食について給食を例に紹介していきたいと思います。

『バカロレアの哲学 「思考の型」で自ら考え、書く』について
フランスの高校生が受ける卒業試験・バカロレア。合格すると、高校卒業と同時に大学入学の資格を得られる試験では文系・理系を問わず哲学の小論文問題が課されます。
正解が一つとは限らない問題について深く検討し、「思考の型」を駆使して自分なりの答えを見つけ、論述するための実践的哲学入門。

▶前回の記事「自分の文化から外に出ることはできるか?」


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