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うまいものとは何か|『バカロレアの哲学』裏メニュー|ウィーンまかない編

今回の哲学問題「あらゆる欲望を満たすことは、人生のよい規則か?」

『バカロレアの哲学』の裏メニュー「ウィーンまかない編」。本連載では、著者・坂本尚志さんのウィーンでの生活と、実際に出題されたバカロレアの哲学問題を引き合わせて記録していきます。

 今回は、オーストリアで出会った「うまいもの」について。

 吉田戦車の不朽の名作『伝染るんです』に、民家の塀に貼られた「うまいものとは何か」という貼り紙を見て、通行人が口々に「うまいもの」を挙げていくという漫画があります。そこで予想外に多いメニューが何だったのかはさておき、私にとってのオーストリアの「うまいもの」は、間違いなくある雪山の民宿の食事です。

世界遺産の地の民宿

 オーストリア政府観光局のウェブサイトによると、オーストリアには12のユネスコ世界遺産があります。1996年にシェーンブルン宮殿、ザルツブルク歴史的地区、ハルシュタットとダッハシュタインがオーストリア初の世界遺産として登録されました。

 その2年後に登録されたのが、センメリング鉄道でした。ウィーンから南部のグラーツを結ぶこの路線は、1854年に完成の世界初の山岳鉄道です。列車はアルプス山脈東端を上っていき、センメリングを通過してグラーツへと向かいます。ウィーンから1時間ほどで到着する峠の駅、センメリング駅は標高896メートル。町へはここからさらに100メートルほど登ります。鉄道開通直後からウィーンの人々の避暑地として開発され、冬はスキー客でにぎわいます。

センメリング駅

 センメリングでは、創業から100年を超える家族経営の民宿「エーデルワイス」に泊まりました。料金は大人が1泊2食付きで70ユーロ弱で、子どもは無料でした。伝統的なオーストリア料理を出す宿で、一日スキー場で過ごしたあとに食べる夕食は格別でした。ここを教えてくれた知人によると、おいしい食事が評判で、コロナ禍の前は高齢者施設に配達をしていたこともあったそうです。

スープにケーキ!?

 第3回「墺仏日給食比較」でも触れましたが、オーストリアの食事はスープ、メイン、デザートで構成されます。スープはセモリナ粉や短いパスタの入ったものがよく出されます。野菜のクリームスープも出されましたが、いちばん驚いたのはケーキ入りスープでした。1辺が5センチほどの立方体のスポンジケーキがたっぷりと、スープに浸かって出てきたのです!

ケーキ入りスープ

 ケーキには砂糖が入っておらず、塩味のスープを吸って崩れるケーキの食感はこれまで体験したことのないものでした。考えてみれば、パスタも小麦粉ですし、多少形が変わっただけで同じものを食べていると言えるのかもしれません。最初の衝撃がおさまると、ごく普通においしいスープでした。

 メインは、肉料理に付け合わせの野菜がつきます。子牛のシュニッツェルや牛肉の煮込み、ガチョウのローストなどが大皿に盛られて出てきます。見た目ほどにしつこくなく、いつも不思議なほどにたくさん食べてしまいました。「標高1000メートルにいると座っているだけでおなかがすくのよ」と宿のおかみさんの言葉ですが、それも納得でした。

 デザートのケーキも自家製です。大きなケーキが人数分出てきますが、メインまででおなかいっぱいになってしまうことも多かったです。その時には、部屋に持ち帰って、夜食にしたり、あるいはスキー場に持っていって、雪山でのおやつとして食べたりもしました。

 オーストリアは世界に名だたるスキー王国であり、より標高が高く、広いスキー場ももちろんたくさんあります。しかしそうした有名なスキー場はウィーンからは遠く、子どもたちを連れての長時間の移動はためらわれました。一度移動すると一週間から10日の滞在が普通ですので、それも長すぎるのではないかと不安でした。

 その点センメリングはウィーンからも近く、コンパクトなスキー場でしたので、短期滞在でも十分楽しむことができました。結局スキーシーズン中に4回ほど「エーデルワイス」に宿泊し、冬のオーストリアを、そして伝統的なオーストリア料理を楽しむことができました。それはまさに極上の「うまいもの」でした。

あらゆる欲望を満たすことは、人生のよい規則か?

 ワールドカップのコースにもなったセンメリングのゲレンデを滑り、くたくたに疲れた体で夕食の席に着くというのは間違いなく幸福な経験でした。翌日にやってくる筋肉痛を別にすれば、ですが。

 おいしいものを食べたい、絶景の中でスキーをしたい、寝られるだけ寝たい、などの欲望がそこでは満たされているわけです。数日という短い期間であれば、それは非常に心地よいことであるのは確かです。そこで私は多くの欲望を満たしていました。

 よい人生を送るためには、自分がしたいことをある程度行うこと、つまり適度に欲望を満たすことは絶対に必要でしょう。しかし、ここで取り上げた問題はもっと強いものです。「あらゆる」欲望を満たすことは、「多くの」欲望を満たすこととは違います。そこにはいついかなる場合でも、自分の欲望を満たすことを優先せよ、という強力な命令が隠されています。

 このような命令に従うことは、「人生のよい規則」でありえるのでしょうか。仮に欲望が満たすのが簡単なもので、対価や犠牲を要求しないものであれば、それはよい人生を送るための秘訣となりえるでしょう。しかし、欲望はそうした穏やかなものではありえません。欲望によって人は苦しみ、時として破滅に追いやられます。それはまた、社会の法や道徳を無視し、乗り越えようとする力にもなりえます。しかも、欲望には終わりがなく、ある欲望を満たしてもまた異なる欲望が次々と生まれてきます。そうした欲望に身を任せることは、人生そのものを台無しにすることになりかねません。

 それでも、欲望のままに生きるということを全面的に肯定することはできるでしょう。そうしたあり方は、法や道徳と対立するかもしれません。しかし、そうした慣習にとらわれている人々には見えないものを見せるきっかけになるかもしれないのです。規範や伝統と絶えず対立する芸術家の生は、このようなあり方の一つの例と言えるでしょう。

 とはいえ、そうした生き方はやはり人生を破局へと導くものである可能性が高いでしょう。それは果たして「人生のよい規則」なのでしょうか。おそらく、「人生のよい規則」とは何なのかということを、改めて問い直さなければならないでしょう。それは一般的な幸福とはかけ離れた何かへと人を導くものかもしれません。それでもそれが「よい規則」であるとすれば、なぜそう言えるのでしょうか。どのようにして、人は欲望を無際限に満たすことを「よい」と断言できるのでしょうか。

 そもそも「よい人生」とは何なのでしょうか。私たちの生はまさにこの「よさ」の探求のようにも思われます。


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