見出し画像

曖昧さと、書くことと

曖昧な部分というのは必ず存在する。そして、その曖昧さを説明しようと、たくさん話したり、書いたりしていく。けれど、言葉で埋め尽くした傍から「そこに曖昧さ」が生じてくる。

そこで、「言葉の定義」を求め、更に説明を付けていく。これの延々繰り返しが、大きく表現すると人類の歴史だし、学問の根底にあるだろうと思う。

教育、指導における場合もこれに似て、有限の、時間的、物理的な制限のある中で、如何に効率よく教育、指導を行うか?が鍵になる。

その制約下で全てが完結するなら良いが、これだけ積み上げた叡智やレベルの向上はとても「制約下」だけでは追い付かない。

そこで、制約を取っ払う方式と、「自主」という名の「宿題」や課題が持ち込まれることとなる。

例えば、私としては「指導」を受ける効果を高めるために、ツイッターでも、noteでも良いので、どんどん読んでおいてもらうと、「神屋的考え、意見」が見えてくると思う。もちろん、さっきも書いたように曖昧さは幾らでも残る。疑問点も出るし、反論もあるだろう。

しかし、そういったものがない中で「指導」を受けるとなると、沢山の曖昧が残ったままとなるだろう。もちろん、読んでおくことは強制しないし、制約下の中で少なくとも基本的なこと、体系立てた指導は行うことが前提

少なくとも、どんだけ書いても、発信しても「隙間」が残るし、逆に浮かび上がってくるしで、「指導」を受ける意味、「依頼、相談」をする意味を失ったりはしない。

更に、一度講演を聞いた、相談したくらいでは全てを掴むのが難しいので、継続的にご依頼、ご相談頂いた方が良いと考えています。(別に一度一度けちっているわけではなく、一期一会のつもりで"全力"で吐き出しても全然足りない)

これからもnoteに思い出のレースを書いたりするだろうけれど、1つのレースを振り返っていく中で、色々書こうと思うと相当深く、多く書くことは出来るだろう。

これが思い出だったら限界はあるが、現在に近ければ近いほど、より多くの書くこと、説明することが増えていく。

こうやって書いているけど、ここはどうですか?と、ピンポイントで質問、相談があったり、講演や対談などが生み出せる可能性の方がはるかに高い。

これは、他の人が色々書き出しても同じで、やっぱり全部の隙間を埋めることは不可能だし、交差する中で、曖昧さやずれの部分で余地が発生する。

これが最近、オンラインサロンを行う方や作家、ブロガー、ライターさんたちに大量に書くことが求められていく要因でもあると思う。もっと知りたい。もっとこの人が書いたものを読みたい。こういう欲求が働いているから、と考えている。

この稿にも追記したいことがどんどん浮かぶだろう。それは別の稿を立てて書いたりするが、一つ書けば、更に何個かのネタが出てくるという。少しでも自分の経験や何かを活かしたい。需要があったら嬉しい。

先人の智慧、本や記事などもどんどん読み込み、乗り越え、新たな時代、レベルへと私自身が向かっていきたい。これからの未来、更に加速し続けるであろう世界。限りある条件の下、どこまで先に行けるか?高次に届くか?

挑戦していく上で、曖昧さの段階も色々乗り越えて、より細かい曖昧さにまで突き進んでいくことが必要になる。

どこまで行っても「曖昧さ」が付きまとうから意味がない、などと言っているより「曖昧さがあるからこそ」とことん、どこまでやっても良いのだから面白い!

こう考えられる人が強いだろうな、と思う。


いつもご訪問、お読み頂きありがとうございます。 すき(ハートマーク)を押して頂いたり、コメントやSNS等にシェア、サポート頂けると励みになります。サポート、応援頂いた分は必ず、活動する中でみなさんにお返しして行くことが出来ると思います。今後もお付き合いを宜しくお願い致します。