見出し画像

「本に選ばれる」経験ー古本屋さんー

先日、中学生に国語を教えていると、教材となるエッセイに惹かれる部分があった。

「本は古本屋で三冊同時に買うようにしている」
「多様なジャンルから本を3冊、選び抜くことは今の自分にしかできないため、それがピンポイントに個性を表現しているのが心地よい」

普段なら何気なく読み飛ばしてしまうようなエッセイの一つだが、妙に記憶に残っている。

「3」という数字の得も言わぬ魅力からか、「古本屋」という居心地のよさを感じる場所が取り上げられているからか、はたまたその3冊は実際僕らが選んでいるのではなく、本によって僕が「選ばれている」のではないかと感じているからか。

そんなことを考えているうちに、図らずも僕にとっての古本屋さんのイメージがまとまってきた。

というわけで、今回は「本との出合い方」に関するお話。

1、新刊書店と古本屋さん

本題に入る前に、まず「新刊書店」との比較を通して見えてくる「古本屋独自の特徴・魅力」について考えたい。

この本の著者は「新刊書店もいいが、古本屋を特に好む」理由として、

①時代への即時性に囚われない魅力
②多様なジャンルから特に「とんでもない組み合わせ」で選べる魅力

を挙げていた。

①に関しては、今でこそ「売れる本より、オーナーが選んだ『良い本』」のみを扱っている書店も一部あるものの、大半は時代の潮流に沿った「売れそうな本」の販売が主流だろう。近くにある本屋さんでも「○○賞受賞!」「○○が選ぶ!第〇位!」などと書かれた本が平積みしている光景を見ることはたやすいし、昨日には所属する大学生協のおばちゃんが「最近は○○が流行だからこれを仕入れたらいいんじゃないか」と2人で話しているのを聞いてしまった。電子書籍の普及やオンラインストア、大手大規模書店の台頭など、書店界隈を取り巻く環境の変化により、まずは存続させるために売れる本を置く、ということがやはり主流のようだ。
(これに関しては近年の大学図書館の傾向にも当てはまるような気がするが、それはまた別の話)

しかし古本屋では、いうまでもなく「客から売られた本(もしくは店主が買い付けてきた本)が店内に並ぶことが圧倒的である。この場合、店舗にもよるが「売れている本」以外にも「良書」「絶版本」とよばれる本に出合える可能性が高い。

これは関東では神保町、関西では京都などといった有名地区にある歴史ある個人店だけではない。大手チェーン店においても実現可能である。
もちろん個人店と比較して「売れ筋」の本を多く仕入れていること、そして「良書」に対する目利きの質が落ちるのは事実だろう。以前『ブックオフ大学ぶらぶら学部』(大石トロンボ・島田潤一郎 著 夏葉社 2000)を読んだ際、過去の某有名チェーン古書店の値札のつけ方のルールに唖然とした記憶がある。しかしいくら売れない本でもよっぽど汚れていない限りは100円コーナーに並んでいることも多いし、逆にやや汚れている有名本が破格で売られていることもある。これらの観点から、行けば見たこともない本に触れることができる。

最近発売されたばかりの話題書や小説・定期的に発売される雑誌を買いたい場合は新刊書店が強みを発揮する。

しかし一方で、「時代」も「評判」も飛び越えて、古書店の本は僕らを待っている。

2、本に「選ばれる」という感覚

では古書店で僕はどのように本と出合うのだろうか。

冒頭にも書いた通り、僕は古本屋さんにおいて、とりわけ目的なく入店する際には、本を「選ぶ」のではなく本に「選ばれる」存在であり、本によって僕が買うに値するか見極められているように感じる。

その一例として、先日地域で行われた古書の定例市に足を運んだ際の「収穫物」を挙げる。

この古本市は、まちの古書店のうち総勢十数店舗が一堂に会し、本の即売会を行うというものだった。各店舗にはそれぞれ雑誌、宗教、エッセイ、自動本などそれぞれの蒐集の「強み」があるが、こぞって自店舗のイチオシ本を出展していることは事実である。よって、その一冊一冊を真剣に見ていると、朝から晩までその古書市で過ごせてしまう。

しかし僕はさほど時間がなかった。
レポートの時期でもあるため1時間ほどでその場を後にしなければならない。
そうした条件下で僕が購入した本は、結局のところ日本の民家に関する本、牛肉に関する本、さらには職工を行う方のエッセイといったバラバラのジャンルの本だった。強いて言えば興味関心の強い「地域活性」「民俗学」という概念をやや拡張したものとも考えられるが、それでも先ほどの著者の言葉を借りればそれは「とんでもない」組み合わせである。

好奇心旺盛な僕にとって、「このジャンルは見ない・買わない」という概念は存在しない。とすると、ほぼ無秩序に並べられた膨大な書籍の山々から本を引き出していくこと、そして予算内に収めるため限られた時間内で購入する本を絞り込む作業を行うことが必要である。やや概念は違うが、「せどり」にも近しいものかもしれない(僕は転売目的では本を買わないが)。

これを行おうとする際、一冊1秒もかけずにざっと本を見ていくのだが、読みたい、買いたい、興味があると思った本のタイトルは自分の目にすっと入ってくる感覚がある。これを僕は「本が自分を呼んでいる・選んでいる」感覚と呼んでいる。

もちろん、僕が出会えていないだけで、もっと興味関心に合った本もあり、本棚に「置いてけぼり」にされているかもしれない。しかしその本たちは「今出合うべき本ではなかった」のである。こちらが探そうとしていても隠れているということは、本も僕に出合うフェーズではないと判断したのである。何も本との出合いはこの一度の古本市ではなく、古書店に行けばいつでも会えるのだから。他のお客さんに買われていたとき?それこそ「今」の出合いではなかったということだろう。本はその時々しか待ってくれていない。またそれもご縁なのである。

3、気づけば古本屋さんに足を運んでいる

僕は旅行先でまちあるきを行う際も、古本屋さんがあればつい足を踏み入れてしまうことが多い。

もちろん、本のある空間が好き、本にずっと包まれていたいという気持ちもある。今ちょうど書店版御朱印長である『御書印帳』を集めているからということもある。

しかし、本との「出合い」を楽しむため、僕はふと入ってしまうのだと思う。

今日はどんな本と出合えるのかと心躍りながら。
呼ばれていたとしても、またもしそうでなかったとしても、入ってみなければ出合えないせっかくの「ご縁」を反故にすることのないように。

だから僕は、古本屋さんに足を運んでしまう。

きょうはどんな本との出合いが待ち受けているのだろうか。


この記事が参加している募集

最近の学び

買ってよかったもの

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートは日々のちょっとした幸せのために使わせていただきます!