自分は何者かという呪縛

「何者かにならなければならない呪縛」

これは、最近の私の中で一番心に溶け込んだフレーズ。あぁ、私がボンヤリといつまでも抱いている不安は、まさにこれなのかもしれないと思った。

自分には価値がない、皆いろんな才能を持っているのに、それに比べて私は、、と勝手に卑下して、何か勝るものはないかと模索して、執着したものが体型。これだけは他の誰よりも綺麗な形でいなければと、加速した結果がいびつに変型した私。

その、比べていた「皆」が一体誰なのか自分でもよくわからなくて、その「皆」は一切私のことなんて見向きもせず幸せな方向へ加速しているのに、私が幸せを求めて加速したはずの先は闇だったの。

自分を切り詰めて、痩せて、その「皆」つまり「何者か」になれるはずもなくて、勝るはずもないのに、それだけが自分にとってマウント取れるものだったんだよね。間違った形だったけれど、努力して手に入れた体だったんだよね。

だからこそ手放したくなくて、その努力してやっと手に入れたと思ったものが「お前はすべて間違っていたんだ」という「摂食障害」という負のラベルに変わり、もう自分は一体何になればいいのだ。どこに向かえば正解なのだ。という更なる自己嫌悪の沼にはまる。

これが、何者かにならなければならない呪縛。

私の場合は何者かの根底にあるものが体型になってしまったけれど、人間には劣等感とか誰かと比較しての自分を追い詰めてしまうことがあると思う。だから、私のような人でなくても当てはまる人はいるのではないかなと思う。

このフレーズは、摂食障害を経験し克服して今は漫画を描きながら、自身の経験や克服へのしるべを伝えるサイトを開設されているヨメジョさんという方のもの。

腑に落ちるフレーズだったことをヨメジョさんに稚拙ながら伝えさせて頂くと、「居心地のいい人生を歩めればいいですね。」という言葉を頂いた。

「居心地のいい人生」「何者かにならなければならない呪縛」。あぁ、これが対になる言葉なのか、とまた腑に落ちた。

自分自身を自分のままに生きていけてる時、人はきっと、居心地がいいなぁと感じるのだろう。誰かといるからの居心地ではなくて、生きやすいという居心地なのだろう。

その居心地のいい場所にたどり着いた時、自分は何者かと問いたい。



読んで頂きありがとうございました! まだまだ初心者ですが、色んなことを書いていきたいと 思います! ぜひあなたのnoteも勉強にさせて頂きたいです〜🌹