見出し画像

【連載小説】母娘愛 (30)

👈 前回 (29)より読む

 張られた立ち入り禁止の帯が、裕子の腰辺りに鬱陶しく纏わりついてくるばかりだ。背伸びしようが、腰をかがめてみようが、一階フロワーを行きかう警察官の姿しか見えない。

『ママ!大丈夫・・・』乾いた唇に、ただ言葉が滑り、胸の高まりは激しくなるばかりだ。

 階段の奥の方で、新しい動きがあったようだ。

 救急隊員がストレッチャーを進めて来る姿が見えた。裕子の眼差しは固まってしまった。ストレッチャーの側面から垂れ下がる腕が、年配の女性のようにみえたからだ。

「ママ!ママ!」裕子は辺りに憚ることもない大声で呼ぶ。立ち入り禁止の帯は、意外にも簡単に腰から解け、裕子は前のめりでストレッチャーの側面を掴む格好になった。

 救急隊員の制止が遅れて、裕子はまともに恵子ははに抱きついた。「下がってください!危険ですから・・・」救急隊員は裕子の両肩を鷲掴みにして、ストレッチャーから離すのに必死になっている。

「娘です!私!」「・・・」
「どうなんですか?容態は?母なんです!」「・・・」
救急隊員は一言も応えてくれなかった。

 あれから、一年が過ぎようとしている。今年も広島の夏は厳しい暑さだ。

 そして、8月1日がやってくる。

 あの日、母はあっけなく逝ってしまった。芝居だったというのに、非日常的な場面に遭遇し、そのショックで、尊い命を落としてしまった。

 あれから、裕子は平常心を取り戻すのに、ほぼ一年かかってしまった。

 実家の整理にとりかかろうと、一年ぶりに訪れた広島の夏は心身共に耐えがたい。

 玄関を開けたとき、母の姿のない現実が裕子の悲しみを一層誘った。『ママ!』裕子の聞き取れない小さな声が、家主のいない家に吸い込まれ、裕子の頬を新たな涙が濡らした。

 座敷にしゃがみこんだ裕子は、箪笥の抽斗に手をかける。母が折に触れ話していたからだ。「ゆうちゃん、私に、もしものことがあったら・・・」が口癖だった。高価な着物ばかりだから、いの一番に処分することを懇願していたのだ。

 抽斗をゆっくりと引き出せば、小動物の鳴き声のような悲しい音がした。

 防虫剤の匂いが裕子の鼻を突く。タトウ紙に丁寧に包まれた着物を取り出したときだ。

 その下からお札の束が現れた。次から次に出てくる一万円札の束。次の抽斗にも、その次の抽斗にも。すべてに、きっちりと帯封がかけられてあった。

 裕子の驚きは、尋常ではなかった。鳥肌の二の腕をさすりながら、なすすべがなかった。

 一息ついて落ち着いた裕子が見つけた、黄ばんだ一枚の便箋には、恵子ははの在りし日の想いが綴られていた。

 ゆうちゃんごめんネ
ママは、心ぞうベンマくじゃったの。いつ、おらんようなるかわからんの。その時のために、ごセンゾさまからウけ続いだ大切なモノお、あんたにお願しとくケエ。ゆうちゃんがイラなけりア、市にでも件にでも寄付して来ださい

 裕子は、誤字脱字にカナ交じりの、メモ書きのような、まるで愛のない遺書を、何度も読み返しながら、『学がないから・・・』という母の声を聴いていた。

(了)

👈 【連載小説】母娘愛 を 初めから読む


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?