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プリズン・サークル | あなたは一体、愛し方をどこで学んだか?

どんな映画を見ても。
理不尽な社会を恨んで、どうしようもなくなった負の感情からダークサイドへ堕ちていく人たちが出来上がるサイクルには、共通点があると思っていた。

記憶に新しくて、わかりやすいのはJOKERだろう。

これは現実社会でも同じであることを、この映画は如実に物語る。


プリズン・サークル


”仮説の映画館”で鑑賞

仮説の映画館というサービスを利用して、PCからスクリーン投影しながら鑑賞した。

映画館の興行収入がアフターコロナでも危惧される理由はなんとなく感じる。
アクション映画を最高の音響と共に楽しむ時間は何物にも代え難いし、自分はアフターコロナでもきっと劇場に足を運ぶだろうけれど。

友人同士で話しながら、好きなものを口にして、同じ作品を共有できる楽しみ方を覚えてしまったからには、パブリックビューイング、プライベートビューイングは今後普及するだろうという感覚を味わった。

仮説の映画館では、通常の鑑賞料を払い、vimeo上でコンテンツを購入。
現存する映画館に一部フィーが入るようになっている。

社会はどんな風に変わっても、困っている誰かを放っとかない人もまた出てくるから、きっと回ると言っていた知人がいたけれど、本当にそうだなと思う。

ワークショップを経て変わる入所者のこころ

自分はメンタリング・ワークショップをよく受けてきたし、実施もしている。

peatixでよくあるやつじゃん…と、慣れた人は思うのかもしれない。

この作品では、刑期を宣告され刑務所で過ごすことが決まった人のうち、選ばれた人たちだけが受けられるTCというメンタリング・ワークショップを受ける人々の様子を、長期間に渡って撮影している。

まだ20代前半の人たちも少なくない。
罪というものを感じられない人もいれば、自身の行為が他人に与えた影響を初めて客観視して、涙する人もいる。

話をする、聞いてくれる相手がいること

見終えて思うのは、
きっと彼らは、人生の中でこんなにも自分の本音を吐露し、聞いてもらい、フィードバックをもらうことが初めての体験なのだろうということ。

「生まれて初めて人に話すんですが…」
「こんなに聞いてもらったのは初めて」

自分もよく言ってもらうセリフだが、通常、心理的安全性がかなり確保されていなければ、自分の弱い部分を吐露する気分にはなれないだろう。

改めて、自分自身も対話してくれる人たちに恵まれていることに感謝するし、セーフティネットとして保健室を続けようという気持ちにもなった。

対話なしに自己を鍛えることはできる。
それでも、他人との会話の中で、気持ちを口に出して言語化して初めて自覚できる思考もたくさんある。
コミュニケーションがもたらしてくれるのは寂しさの緩和を超えて、それ以上があるという証拠をそこに見た。


同じ境遇にあるからこそ

自分より恵まれた環境にいる者に聞いてもらってもなんの意味もない。
価値観が違う者に諭されることも嬉しくもなんともない。

何を言ってもらってもお前にはわからない、という気持ちは絶対に消えない。

本作の対話でもっとも大事な点は、受刑者同士が対話していることにあるように見えた。

その内容に差分はあれど、同じ境遇にある者たちが、「この人よりは自分は」、「この人が言っていることはわからない」、「とても共感する」といったことをそれぞれ思うのだろう。

他人の壁打ちをしながら涙を流す人がそれを物語る。
きっと、自分の思う何かに心情を重ねたり、気づきがあったのだろう。
対話の意味深さを知る。


世界は最初から不平等


いったい誰が、世界は平等だなどという嘘を、吐いているのだろう。
全然うそだ。

幼少期に信じていたそれは、一枚一枚剥がれるように、その残酷な正体を現して、やがてなんの希望も持たない方が楽だなんて、考えるようになってしまう。

理不尽だ。
誰も救ってくれやしなくって、目の前の、のうのうと過ごしている人に罪はないと知っていて、それでもなお、踏まれているその痛みを味あわせてやりたい気持ち。自分にも覚えがある。

憎しみから解放されるには、どれほど長い階段であっても、自分がそこへ到達するしかない。
そこから解放されたら、熱さがふっと喉元を過ぎ去ったようにどうでもよくなる。

個別の誰かを憎んでいたのではなく、目の前の人との差に苦しんでいたことに、やっと気づくことができる。
見えない社会への憎しみが、それだったと知ることができる。


だが、そう思えるのは、階段を登ってからだ。
だから、そこに到達できるまでに、それを吐露できる仲間に出会って、階段を登る方法に気づけなければ、絶望と憎しみは、自分か、社会に向かってしまう。

父親からの暴力。
母親への愛の渇望。
幼いきょうだいへのひどい仕打ち。
学校でいじめられたこと。
自傷を超えてなお行き場のない憎しみ。

彼らは自嘲するように、その境遇を「ここではスタンダードだね」と口にする。きっと初めてなのだ、同じ境遇を辿ってきて、わかると言ってもらえること。

TCの存在がどれほど救いになるだろう。
自分にもとても覚えがある、世界に一人じゃないと知った時の気持ち。


どれほど贅沢と言われようと、ただ人がいるだけでは、優しくされるだけではだめで。孤独とはそういうことで。
生まれてこのかた、同じことを自然発生的に考えて、同じことに苦しんでいる人に出会えることがどれほど救いか。

彼らは、自分が被害者でもあるとも語る。
また、自分を苦しめてきた相手と同じことを、恋人や子供にしてしまったことを自覚した人もいた。

教育、そして道徳

窃盗が罪だと感じられないという人が一人いた。
それをおかしいと指摘する人もいた。

彼を「おかしい」とは、自分は思えなかった。

彼の価値観として、「自分は自分の甘さで盗られたのだから仕方がないと思える。だから自分が盗ることだって同じ」というものがあった。

窃盗をいけないことだと思うのは、そう教えられてきたからだ。
自分がそれをされては困るから、それをされて困る人を見てきたから、誰かを悲しませることは悪いことだと腑に落ちたから、それをしないだけ。

他の罪状があった人たちが言っていたことも深く残る。
最初、被害者に対する申し訳ないという気持ちよりも、自分の中での後悔ややるせない気持ちの方が大きいと思っていた人たちが、やがて変わっていく様がリアルだった。

自分が刺した相手、当時の恋人や、家族を演じる受刑者たちとのロールプレイングを行なった。
淡々と責められ、自分の行なったことが何を破壊したかを知らされ、そこでぼろぼろと涙した。
今どういう気持ちなんですかという問いに答えるには、その感情は複雑すぎたように見えた。


全然関係のない人に責められることより、顔の浮かぶその人たちの悲しむ顔こそ響くものはない。

誰かを大事だと思った上で、その人が傷つくところを目の当たりにして、ああ、泣かないでくれと初めて胸が痛むのだとしたら。
まず、誰かを大事だと感じないといけないわけで、もし世界に絶望しているのなら、罪より先に愛を知れということはなかなか酷かもしれないと思った。

道徳や教育は、愛を教えるという行為かもなのしれない。


愛し方を学ぶ方法

愛を最初に家庭で学ぶことが、統計的には多いのかも知れない。
それでは、そうでなかった人は、どこで愛を学べばいいのだろう。
初めて互いの合意で触れることになった恋人に、どうやって愛を伝えればいいのだろう。

漫画だとかテレビだとか、知人が言っていたことを真似ながら、手探りでそれを試していくしかないだろう。


理想論を唱えながら手を上げる父親にどうして愛を学べよう。
反面教師で愛に溢れた家庭を築ける人もきっといるから、必ずそうだということはできないけれど。

それでも、親鳥の飛ぶ姿を見ずに育った小鳥が、その姿を想像しながら、小枝から飛び降りなさいなんて、どれほど残酷だろう。

鳥なのだからそのやり方を遺伝子に刻まれているだろうと言えるだろうか。
周りで飛んでくれる他の大人たちや、自分も飛べなかったけどこうやったら飛べるようになったから一緒にやってみようという小鳥たちがいて、きっと飛べるようになっていく。


負の連鎖とはそういうことだ。
愛を知らずに育った人たちがやがて同じことを繰り返して、同じ憎しみを生んでしまう。

大人になって自分が両親に思うのは、彼ら自身の境遇に対し、作ってくれた環境はとても温かであったこと。そして、彼らと同じ年齢と境遇でそれを再現するのは自分でもきっと難しかったこと。

子供の頃は自分の気持ちでいっぱいいっぱいだったけれど、距離を置いてそんな風に彼らを捉えられるようになった。
もがいて、今があって、彼らは彼らなりにきっと後悔もしていて。
自分は彼らに感謝をする部分もあり、他人だからこそどうしようもない部分もあり、そして、せめて受け取ったものをどうにか紡いでいきたくて、きっと筆をとっている。

親であろうとなかろうと、全てのひとが愛を学べるように、一人でも倫理的な背中を見せてあげられる大人が側にいてほしい。
最後の人類は、どうか、愛を悟ったひとでありますように。


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