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【民俗学漫談】ネットストーカー

ストーカーの異常心理

しかし、ストーカーと言うものは、どうして不毛な虚しい行為をしてしまうのでしょうか。

ストーカーは自分のことを被害者だと思っています。
自分は悪くない、何も悪いことはしていない、自分は好意的に接していたのに、なぜ連絡をくれないのか、会ってくれないのか、おかしいのは相手の方だ、と思い違いをしているのです。
何なら、自分が正義だし、自分こそが相手を幸せにしてやれるのに、とさえ思い込んでいるのです。

この時点で、すでに我を忘れて、相手のことも考えられなくなっています。
そもそも、ストーカーになるような人間は、初めの段階から、相手のことを慮(おもんぱか)る、思いやる気持ちで接していたのではなく、自分の満足のために、自分の寂しさを紛らわせてくれる相手を探していたのですから。

コンプレックス解消としてのストーキング

人間、寂しさと言うものは誰しも抱えています。人間の脳の構造上仕方ありません。
その寂しさの正体を精神分析用語で言い換えますと、コンプレックスと言うことになります。
人間というものは、生きていればコンプレックスを抱えてしまいます。
寂しさを埋める、コンプレックスを解消するために努力すると言っても過言ではないくらい、人間にとっては根深い苦しみ、もしくは原動力となっています。

ストーカーになりうる人間はコンプレックスが強いんですよ。
しかも、それを制御できる人格を持たない。
コンプレックスが強いと、人生の目的が、コンプレックスを解消する、埋めるためのものとなりまして、あらゆる行為はその手段となります。
人間に対しても、コンプレックスの解消となりうる対象と見るや、距離感もわからず、自分のことをわかってほしいという姿で接してきます。

恋愛そのものをしたいというよりも、恋愛と言う手段を使って、コンプレックスを解消したいんですよ。
まあ、それはストーカーに限った話ではないのかもしれませんが、恋愛状態にあることで、自分のコンプレックスを、その寂しさを埋められると思っているわけです。

相手に歪んだ可能性を見ているわけですね。

ストーカーというものは、恋愛以外に、自分のコンプレックスを解消する手段を持ちえない、見いだせないような状態にあるわけです。
仕事でも勉強でも何かしらの研究でも娯楽、趣味など、打ち込むものが見いだせない状態にあるんですね。

その何もない自分のことをわかってほしいんですよ、コンプレックスを抱えて苦しんでいる自分のことを。
無茶苦茶ですが。無茶苦茶でござりまするがな。
自分のことも現在のことも見えず、ただ自分のコンプレックスの解消の事しか見えなくなる。
しかし、相手はわかってくれない。わかるわけありません。
そうなると、ストーカーに豹変(ひょうへん)するわけです。
自分のことを自分の気持ちを、自分の苦しみをわかってもらえるまで、追い続けるわけですよ。

キリストじゃないんですからね、そんなことを求められても無理なんですよ。
でも、ストーカーの異常心理としては、伝えればわかってもらえるはずだと思いを募(つの)らせているわけですよ。

変なところで、論理的なんですよね。論理にもなっていないのに当人は気付いていないんですが。

コンプレックスと言うものは、精神分析用語でして、日本語ですと、劣等感の意味で使われますが、優越感、劣等感、両方コンプレックスなんですよ。

優越感 superiority complex
劣等感 inferiority complex

世の中で活躍しているような人でも、優越感を求め、優越感に浸ることで自分を保ち、生活を整えているような人間ならば、それはコンプレックスを抱えている人間ということになります。

劣等感を抱えている者は、それを埋めるために優越感を求めずには済まない。
優越感に浸って心の寂しさを抑え込もうしても、他人が存在する限り、優越感の裏で不安は解消しない。
自分が正しくないのが怖いから、優越感にしがみつく。
自分を支えるものは優越感でしかなくなる。
コンプレックスというものは人間を歪めるのです。
だから、精神分析の用語として成り立ったのです。

コンプレックスをばねにして、懸命に努力をするという方向、情熱を健全な方向に使えればよいのですが。

過去にとらわれた亡霊としてのストーカー

ネット含めてストーカーをするということは、情況がわからなくなっているんですよ。何をどうしたらよいのか。
情熱の持っていきどころがわからなくなっているんですよ。
どうしたらというのは、自分が一方的に楽しかった情況に戻すにはどうしたらいいのかということですよ。

ストーカーというものは、現在も未来も見えない、過去にとらわれた亡霊ともいえましょう。

相手は現在に立ち、未来を向いて進んでいるにもかかわらず、ストーカーは過去にしがみついて、じっと見つめているわけです。
ストーカーをされている側からしたら、気味が悪いだけの存在、ほとんどゾンビにしか見えないのに、ストーカーにはその自覚がない。

民俗学的な話をしますと、幽霊というものは、あの世に行った自覚がないんですよ。
だから、この世にとどまって、幽霊として漂(ただよ)う。
幽霊の幽は、あの世という意味です。あの世の霊であるにもかかわらず、この世にとどまって、恨みつらみを述べている。
そこで成仏(じょうぶつ)させてやり、あの世へ送ってやるわけです。

幽霊はその自覚がない。
ストーカーも、ほとんどはその自覚がないらしいですね。自分がストーキングをしているという自覚がない。
だから、ストーカー行為を止めるように、と伝えると驚くらしいんですよ。

ストーカーというものは、『どうしたら』、『どうしたら』と拗(こじ)らせてゆくうちに、最初は『どうしたらよくなるのか、想いが伝わるのか』だったものが、やがて『どうしたら、相手を精神的に苦しめられるのか』に進むんじゃないでしょうか。
幽霊から怨霊(おんりょう)への変化に似ていますね。

すでに別の世界の存在である相手に対して、過去にとどまったまま、恨みつらみを述べている、ストーカーとはそのような存在なのではありませんか。

自分が優しいと思い違いをしている

普通、好きな人がいたら、ともに成長してゆきたいと思うものだと思いますが、ストーカーというものは、自分はもう諦めているんですよ。
自分ではもう自分を救えない、自分はもう手の施(ほどこ)しようがないと察しているんですよ。

好きな人に対してでも、『ともに』という感覚が薄く、一方的に自分の世界に引き込もうとする。

相手のことを知ろうとする前に、自分の価値観を示し続ける様なまねをするわけです。

それ、要は、自分を癒してくれ、自分に優しくしてくれ、と言っているだけで、自分は努力したり、動こうとしたりしない姿なんですよ。

幼稚園児が保育士さんに喚(わめ)いているようなものです。

すでに自分が持っているお金や、趣味や技術を用いて相手に喜んでもらおうとすること、それ自体は別に小児から大人まで一般的な話なんでしょうが、ストーカーの場合は、それらを手段として、相手を自分の昏い世界に呑み込もうとするわけです。

だから、どことなく、怖いんですよ。
どこか、関係性の手順をすっ飛ばして仲良くなろうとするあたり、サイコパスもそうなんですが。

相手に合わせているようで、合わせていない。
だから、自分の思い通りに相手が動いてくれないと、いきなり焦って、電話やDMを連発する。

あくまでも、自分の心を守り、安心したいから、相手を求め、優しくしていただけに過ぎない。

傷ついている自分や、自分の過去を振り返って足らないところを補ってもらいたいだけなんですよ、ストーカーは。

過去ばかり見て、前を見ていない。

口では『前を向いていこう』とか、『自分とともに進んでいこう』とか言いながら、その実、過去に立って、進もうとしないのです。

相手とともに自分も変化しようとは考えていない。

なぜかと言えば、ただ、過去にしゃがみ込んで自分の寂しさを埋めてくれる存在を探し求めているからにほかなりません。

相手を一人の人間して尊重していれば、そもそもそのような寂しさやコンプレックスの穴埋めの道具扱いをするはずがない。

ストーカーというものは、『足らない、足らない』と言って、世界をうろついているわけですよ。

妖怪『足らない』と言う感じです。

そもそも、普通の人間でも、一つのものごとばかり考えていると頭がおかしくなってきますからね。

哲学者くらいですよ、狂わないのは。狂ってしまった哲学者もいますがね。

ストーカーは、もはや現実に存在している相手を追っているのではなく、自分の頭で肥大化(ひだいか)した妄想の存在を追っているにすぎません。

ドライな言い方になりますけども、人と言うのは、我儘(わがまま)なものでして、そもそもが、親切にしたり、優しくしたりするのは、自分がやりたいからしているものなんですよ。単にできることをしているだけにすぎません。

他人のつまらぬ欲望に付き合う必要は、どこにもないのです。

ネットというストーキングの手段

結局は手段があるからなんですよね。
想いを拗(こじ)らせた相手が、ネット上に、SNSなどで日常を公開している。それを追う。追い続ける。追ううちに、他のものが見えなくなる。

昔からストーカーと言うものはいました。

今昔物語集巻第三十第一話の『平定文(たいら の さだふみ)、本院の侍従(じじゅう)に懸想(けそう)せし語』 なんていうのも、当時の色男が宮中に仕(つか)える美女に繰り返し手紙を送り続けるわけですから、ストーカーですよね。しまいには、諦めるつもりとはいえ、大便まで奪おうとしたわけですから。

安珍・清姫伝説では、女性が男性を追いかけていますが、ストーカー行為以外の何物でもありません。
それを芸術にまで高めたものが能の『道成寺』 (どうじょうじ)なわけです。

『道成寺縁起』絵巻(部分)より。清姫は逃げる安珍を追いかけるうちに、身体が変貌してゆく。

昔は物理的に追いかけるしかなかったわけです。化け物になってまでさえ。

しかし、リアルのストーカーより、ネットストーカーは簡単なんですよ。
スマホをポチポチしていればできますからね。
手段がなければ人間はやらないんですよ。
諦めて他のものに目を向けるわけですよ。

スマホは、世界とつながる窓口のようなものになってしまいましたからね。

スマホを片手に世界とつながるのはいいんですけど、人間の昏(くら)い情念と言うものは、いつ何時(なんどき)その人間を呑(の)み込み、怨霊と化すか。

昔の男は、恋愛が成就せず、他の女に向かう余裕もなければ、寺に入って坊主になるか、必死に勉強や仕事に打ち込んだものですよ。
インターネットの世界、それを手段とすることを当たり前のように信用してしまい、現実世界と区別する自制心を持たなければ、人間特有の昏い情念に支配されてしまうこともあるのでしょう。

その責を負うのは、ほかならぬ自分なのですが。

仏教でもキリスト教でも戒(いまし)められてる傲慢から嫉妬、怒り、そういった『罪』よりもコンプレックスの方が人間を狂わせ、苦悩させるのですよ。

コンプレックスを制御するには、愛や信頼を感じる以外に方法はないのでしょうか。

人間、最後まで情念に呑まれず、軽やかに生きたいものです。

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