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【民俗学漫談】コンプレックスの発生

人間を突き動かす原動力はコンプレックスだと思っています。

コンプレックスと言うものは、精神分析用語でして、日本語ですと、劣等感の意味で使われますが、優越感、劣等感、両方コンプレックスなんですよ。

優越感 superiority complex
劣等感 inferiority complex

優越感もまたコンプレックスである。

コンプレックスを持つのは人間だけですよ。
動物はそのような複雑な精神を持ちません。

では、いつごろから、人間と動物は違う生き物になったのか。
特に脳の発達において。

人類というものは、肉体のみで自然界で生存できなくなったあたりから意識というものが生じ、脳の発達としては、あえてその発達を遅らせ、他の動物に比べて遅く成長することによって、知能を得るようになりました。

この変化がおおよそ7万年前と言われています。

この辺ですよ、人間が自然界において、動物ではなくなったのは。

動物ではなくなったというのは、一個の肉体だけでは、他の動物に比べて異常な肉体を持つようになってしまった。
外見が、自然界においては動物のような立派なものではなくなってしまった、ということです。

これがコンプレックスの始まりですよ。

同時に、知能の発達を遅らせることにより、非実在のもの、そこにないものを理解し、考え、伝える知能を獲得しました。

47万年〜66万年前、現生人類とネアンデルタール人が共通祖先から分岐したあたり、現在の人間とほとんど変わらない発声器官を持ち、コミュニケーションをしていたとされています。
しかし、文化的な活動や技術を持つことは7万年前より以前には痕跡がないのです。
住居や狩猟や漁撈の道具を拵えたり、洞窟に絵を描くような行為は、その頃にならないと現れないのです。
これらは、いわば、空想する能力によってなし得る行為です。
その場にないものを頭の中で拵えてから、現実に作り出す能力です。

それが約7万年前に起きた。
突然変異ですね。

かつては、人間の脳は二十歳くらいまでで発達を終えるとされていましたが、今の脳科学では、20代半ばから30歳くらいまで発達し続けるとされています。
動物に比べて、霊長類に比べて、異常なほど成長しきるのが遅いのです。

物事の位置的な上下関係や前後関係、物事を相対的に見て理解する能力は、脳の外側前頭前野で把握しているとされます。

この前後関係を把握する能力が、言語、単語に応用されると、何々が何してどうなった、などと、いくらでも、単語をつられて、そこにないものを頭の中で現すことが可能になるのです。

この能力と言うのは、五歳程度までに、このような前後関係のある言葉の連なりを聞いておかないと、その後、いくら脳が発達し、いくら単語を覚えようとも、理解ができないのだそうです。

そこで、7万年前の人類は、あえて脳の発達を遅らることで、外側前頭前野が発達しきってしまう前に、関係の入り組んだ言葉を覚える期間を設けたのです。
と言う面白い説があります。
それと時を同じくして、お互いに、入り組んだ関係性のある文章ともいえる単語の連なりを話し始めた種が現れた。
お互いに、他の人類ではいまだできなかった前後関係のあるような言葉を交わし、想像し、頭の中で物を拵え、作り出す能力を得た。

試行錯誤の能力を得たわけです。
その試行錯誤の能力こそが、人類の発展につながったのです。

よくもまあ、成長を遅らせた種が自然界で生き延びたものです。
よくもまあ、共同体は、その種を保護したものです。

言語能力というものは、それまでの身体表現よりずっと多くのコミュニケーションが可能となりました。

しかも、身体表現に比べて、嘘を言えることが特徴です。
人間に心というものが生じ、コンプレックスが生じた。

反射ではなく、先を見据えて意図したコミュニケーションをするようになった。
また同時に、うまくいかなかったコミュニケーションを取り繕ったり、教えたり、誤魔化したり、目的を共有したりすることが可能になりました。

そうして人類は、道具を作り、動物と対等以上になり、時に動物を崇拝し、やがては、支配する存在となってゆくのです。

負い目に加えて優越感をも含めたものがコンプレックスだと思います。
崇拝するということは、キリスト教の神に対してキリスト者がするような、意志を差し出す行為ではなく、負い目を感じながらも支配したいとの欲望が混ざったものであるからです。

『ギリシア人たちは、『良心の疾しさ』なるものを寄せつけず、その魂の自由をいつまでも楽しむために、永きにわたって彼らの神を利用したのである』とニーチェが書いていますが、神話の中で自由な神々を想像したということは、コンプレックスに苛まれていたからにほかなりません。

動物は、空を自由に舞、大地を駆け巡り、森を力強く推し進んでいたのです。
その自由なる姿を見て、7年前の人類は重苦しさを感じたのではないでしょうか。
動物のように飛べず、走れず、力を持たず。
そうして自分が嫌になるという感覚、これが生じたのではないでしょうか。
自他を比べる能力が備わったわけです。

もしかしたら、『自分は得ていない』という自他を比べる脳の働きは、
始めは、人間同士ではなく、動物に対して起きたのかもしれません。

ヒトの前頭前野は動物の、と言いますか、霊長類のなかでも極めて発達が遅いのです。
猫にしても、一年で大人ですが、半年程度で狩はできるようになりますが、人類は、二歳になっても三歳になっても、保護がいる。

これは、他の動物に比べて異常なことでして、他の長生きするような動物であっても、とっとと成長して大人になるわけです。
3歳のチンパンジーは、危険な場所がわかるそうですが、人間のそれは何が危険なものなのかもわからない。

この変化は、他の動物に対するコンプレックスのあまり、脳の発達に変化が生じたのではないかと思います。
外部に発散できない力は、内に向かいます。
そこで、思考というものが生じたのではないか、つまり、心と読んでも差し支えのないものが現れたのではないかと。

自分がこのままでいいのかという疑念ですね。
それが生じた。

そうして、動物を崇拝するような社会も出てきたのではないでしょうか。

後に、人間が自然を支配し、動物と自分を完全に区別するようになるまで、そうした動物に対するコンプレックスが続いたと思われます。

コンプレックスが現状を変えようとする意志につながる。
動物はそれがないから、変えようとすることを思わない。

『インターネットがつまらなくなった』と言われるのは日本だけではないようで、アメリカでも同じことらしいんですが、それは、広告収入目当てのサイトやブログが増えた、検索エンジンは内容優先ではなくなり、Twitterは呟きではなくなり、Instagramは自撮りではなくなり、広告宣伝や閲覧数優先、『関心経済』に基づくアルゴリズムになってしまった。

日本においても、ネットの多くのコンテンツは、如何に得をするか、効率よくするか、もしくはしたか、ばかりになっている気がします。

『マウント合戦』と言われますが、匿名掲示板でさえ、見ている限りでは、自分がちゃんとしているという主張をする場にさえなっています。
如何に、時流に乗って儲けているか、ちゃんと利用できる制度を利用して、懐を増やしているか、それを匿名でするほど、多くの人々が、自分がしている生活に不安があるのかもしれません。
ただの所得に応じた事務作業をわざわざ匿名掲示板で報告するほど、余裕がなくなってるるようです。

もともと日本人は、他人に合わせる文化を持っていました。

他人に合わせるということは、他人と自分を比べるということでもあります。

ネットによって、比べる対象が格段に広がった。
その合わせる対象が、恵まれた人々になってしまったわけです。

富豪でも活躍している人々でも、そこに合わせたいのに、合わせられない、そこからコンプレックスが生ずるわけです。

幸福を手に入れようと努力をし、それを手に入れた後でさえ、一体、幸福とはなんなのか、わからないままでいるから、常に、人々の賛同や賞賛、自らの正当性の主張で固めなくては、安堵しないという精神状態なのかもしれません。

これは匿名掲示板でなく、有名人でも同断の現象なのですが、誰も変に思っていないし、批判もしていないのに、羽振りのよさを後悔したり、報告しますが、『人並み以上』の生活、人並み以上の利得を得ていないと、見下される、それがとても怖いのかもしれません。

わざわざ匿名で、自分がちゃんと利益を得ている、幸せであると主張する行為は、誰かに向けたものではなく、自分の不安を埋める行為に他なりません。

SNSや配信サイトで、見知らぬ他人に、自分の幸せをアピールする現象は、自己顕示欲や承認欲求だけで片づけられない問題があると思います。

そこには、自分が手に入れた『幸せ』が本当に幸せなのかどうか、選択を間違えていないのか、自分は本当に得をしたのか、そのような不安を抱えたいる方が、他人の賞賛という形で認めてもらわんとする行動ではないでしょうか。

『呑気と見える人々も、心の底を叩くとどこか悲しい音がする』と、吾輩は猫であるにもありますね。

皆、ゴールを目指しているですよ。
ところが、ゴールなんてないわけですから、いざ手に入れたとこで、まだ先がある、もしくは、これはゴールではない、ということを薄々わかるわけですから、その不安や葛藤を抱えきれずに、アピールするのではないのでしょうか。

本当に幸せなら、隠しませんかね。

幸せな事柄に対するイベントが盛大に行われるのは、そのうちに昏いものを含んでいるからではないでしょうか。

有名人が、しょせんは自慢でしか無いような内容の話を、特定の誰かに向けたメールではなく、SNSによって一般に公開する行為も、同じ精神状態だと思います。

もしそうであるならば、どこにその歪みの成因があるのか。

権力者を揶揄するユーモアを忘れ、普通の人々をコケにして稼ぐタレント、数字でしか生徒を評価できなくなっている教育産業、自分の地位や収入、それによる消費でしか、子供や年下の人間を説得できない大人たち、その他、政治や行政なども、国民には、魅力がなく、公正を欠いているかのように見受けられるのかもしれません。

インターネット、スマートフォンを通じて、効率ばかりを追うような脳に変化されられながら、それが優越感をも含めた人間特有のコンプレックスを肥大化させている気がします。

日常的に、システムに慣らされると、人間もシステムの一部の様に脳が思い込んでくるのです。
人間を効率化したシステムの様に人々が考え、そのように行動しているのです。

そのシステムに適した人間以外は役に立たないと思い込み、見下すことで、自分を安心させたいのでしょうね。

消費者と言うのは、お客様ですから、自分は常にお客様気分になるんですよ。

どこへ行こうと、何をしようと、文化や礼節よりも自分の消費行動が正しいと多くの人々が思い込んでいるように見受けられます。

『奪われたくないけど、欲しいものは得たい』という、思春期のようなメンタルが、匿名掲示板にせよ、SNSにせよ、自分を認めてもらうことだけしたいという欲望に利用しているのかもしれません。

その姿は、優越感も含めたコンプレックスに突き動かされているだけのようにも見受けられます。

思春期の頃というものは、自分のものを奪われたくないと、不安で慄(おのの)きながらも、自分の可能性を信じて、世の中にあるものを得ようとする希望が綯交ぜになった精神的に不安定な時期であります。

自分のものと言うのは、物質的なものというより、精神的なもの、アイデンティティですね、これを懸命に守ろうとするわけですよ。

それ自体は健全なことで当たり前のことなのですが、これを多くの人々が抱え続けている。

思春期メンタルで、ずっと生きている。
大人が幼いという話ではないんですよ。

老若男女の皆が皆、自分のアイデンティティを保持し、一人の立派な尊敬されるべき個性であろうとするのはいいのですが、それを他人に示し、他人から認めて気に掛けてもらえないと、アイデンティティが揺らぐ、逆に他人からレッテルを張られることを恐れるという様な思春期メンタルを抱えているわけです。

他人と言うのは、見知らぬ他人から身内までありとあらゆる自分以外の他人です。

この状態では自分や自分の目的を大切にすることが難しくなる。

ネットで異常なまでの情報、その情報のほとんどは取るに足らない他人の噂話に過ぎないのでずが、その情報が、あまりにリアリティがあり、自分も関連しているのではないかと言う錯覚に陥るような手法で喧伝されている。

皆が皆、広告心理を使っているような現状で、多くの大人たちがほどほどのとこで落ち着いていられないわけですよ。

その落ち着きのなさが子供に伝わる。

大人がいつまでたっても自らのコンプレックスを突かれるようなシステム、コンピュータシステムやSNSによって不安定になり、落ち着かず、自噴も得なくてはならじと、価値の喧伝されているもの、すでに均質化されたものしか認められないと言いますか、他人が認めてくれないので、多くの人々が認めている価値を得なくては、胸を張れない情況になっています。

価値と言うのは、金と名誉ですよ。

昔々から人々が欲しがっていたものですよ。

それを今、テクノロジーが推進している。

一見、好きな仕事ができそうになっていますが、お金を稼がないと、認めてくれない。
流行っていないと、認めてくれない、それが、アーティストやクリエイターにまで蔓延しているわけです。

仕方ないから、自分の作品をいかにお金に繋げるかというマーケティングもしなくてはならない。

この手法、この世のもので自分を固め続けないと、自分が認められないのではないのかという不安を抑えんがために、自分は間違っていない、変じゃない、立派だということをアピールし続けなくてはならない、続けることで日々、アイデンティティを塗り固める様な手法をどこで学ぶのかと言えば、学校です。

学校が、何を教えているのかと言えば、勉強以上に、自分が結果を示さないと、見下されるという不安を解消するために、あらゆる手段で自分が公言されない、自分が得をする立場に立たないといけないという感覚を教え込んでいるのであります。

そのためには、他人を見下し、また見上げることも含まれる。

見下したり、見上げたりを日々繰り返すと、姿勢が悪くなるわけですよ。

ネットはオープンで安上がりな場であったものが、閉鎖空間のようになってしまいました。

閉鎖空間と言うのは、システムを商売として広めている企業が、その商いのために、情報や改善を制御するということです。

かつてのネットのように、様々な個人が知識を出し合うのではなく、企業の会社従業員がコントロールする閉鎖空間になっているように見受けられます。

学校と同じです。

そこでの価値は点数や腕力、もしくは権力でしたが、それが今の社会はお金と権力になっている、今に始まったことではありませんが、情報通信技術がお金と権力にとって都合がいいとは、ほとんどの人々は今に至るまで気づいていなかったのではないでしようか。

教師が別に生徒個人の人生を考えてくれるわけではない、まして同級生はということと同じく、別にコンピューターでもインターネットでもそこでサービスを展開してくれる企業の会社従業員が、ユーザーの人生を考えるはずかないわけです。

『金と名誉と女』と言うのは、数万年前から、今に至るまでこの世のものの三大人気ジャンルなわけで、いくらネットが発展しようが変わらない。

これは、技術は受け継ぐことができるが、人格は受けづくことができないことに起因している人類の過大なわけです。

ですから、『文明や技術は進歩しているのに人間の頭は変わらない』と言われるわけです。

できる人はいいんですよ、でもできない人々は、どうすればいいのでしょうか。

コンプレックスに苛まれ、好きなことも見いだせず、上流社会を夢見る。

美しい人、品のある人を求める。

システムに組み込まれ、自分がわからなくなり、この世のものを求め続けるしかなくなる。

人間というものは、お金や権力を求め、お金や権力を使って、その寂しさを埋め合わせているだけなのかもしれません。

お金や権力がなければないで、今度は優越感とは逆のコンプレックスに苛まれような社会なのですから。

寂しい思いをしたくない、結局は、それだけのことなのかもしれません。
政治家でも企業の幹部でも芸能人でも。

棒高跳びで人並みの高さに失敗したからと言って、延々バーの高さを上げ続けるようなものです。

甘えるということと、甘やかせるということの違いが判らないある種の人間族がいますが、人間は、時に甘えること必要で、甘えられる人がいられる人は恵まれているわけです。

甘やかせる、甘えてもらいたい、というのは、単なる欲望です。
自分の欲望のために甘い蜜を置いて誘い出しているにすぎません。

人間の脳は常にコンプレックスからの解放を望み、楽になりたがっているわけですからね。

過去を思い起こし、戻ろうとする妄想にたびたびかられる場合、過去はもう存在しないと言い聞かせるしかない気がします。

できない自分を精神的に守るために、今ではない、別の世界に行こうという考えに染まるわけです。
そこにはプライドが残っているわけです。
現状を変えられぬ自分の実力の無さは認めたくないから、別の世界に行けばいいという考えは、無気力と言うよりも、もしかしたら、プライドからくる考えなのかもしれません。

でない自分を認めてたない、自分はできるはずだったのに、という考えはもうないはずの過去をたびたび思い起こし、戻りたくなるものです。

できることをする中で、少しでも好きなことを続けること、それしか今のところ思いつきません。

今の自分の情況に嫌気がさしている人は、自分が美しくなるなり、上品になるなり、教養を深めるなりすると、支えてくれる人々も現れると思います。

人生も、人間関係も言葉に表さなくてもいいんですよ。
まして数値化なんてしたら、自分がわからなくなるのも当たり前ですよ。

数字は数勘定や比較するためのものでしかありませんから、霊長類の中でも脳が発達した種族はその能力を自分に、また他人に向けることもできるわけですが、しない方がいいと思いますよ。



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