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私のはなし 部落のはなし

映画を読み、そのまま著書を読んだ。
ドキュメンタリーは、同世代よりよく見ている自負がある。著書は、ドキュメンタリー映画の風をよく感じられる描写が多く、読む時間やその人の感覚ではくどいな、と思う瞬間があるかもしれない。私も、時折そう思った。しかしそれは、『はなし』を映像化するドキュメンタリー映画を撮影した、監督の気風を感じられ、嫌だな、というネガティブな感覚ではなかった。
丁寧すぎるほどの描写。
差別のはなしを撮影する人間の、優しさと思う。

あとがきで、亡くなられた娘さんへの思いを書いていらっしゃった。二度読んだ。たぶん、二度で十分。もう、読めない。

自分は、身体障害者の娘として、アイデンティティを持って生きてきた。周囲はそう思っていない。母ですら、そう思っていないと思う。
でも、私のはなしはそうではない。
新興宗教を信仰するものの娘。
身体障害者の娘。
不登校の妹。
明治生まれの新聞記者の孫。
大正生まれの差別意識の強いひとの孫。

いったいどこに私のはなしがあるんだろう。
私のアイデンティティは、私のはなしではなく、私の家族、出自、生まれた年、環境、国籍、、、家族のはなしではないか。私を今まで作った、歴史のはなしではないか。

今までの歴史を、家族の歴史を、誇ってなにが悪いのか。
あなたにも、家族がいるなら、生きているなら、病気や死を経験するだろう。そしてこれからの未来を感じることもあるだろう。
希望でもなく、絶望でもなく、明日の自分、来週の予定、来年の楽しみ、、、
それを不安や、恐れを抱くこと、抱かせること、それは許されない。断固として、私は許さない。
教育者として、当事者として、母として、私は許さない。

だから。
だからこそ。私は強くありたいと思う。
優しくありたいと思う。
気付きたいと思う。
勇気を持ちたいと思う。
弱い立場の気分でいたいと思う。
丁寧な立ち振る舞いをしたいと思う。
丁寧なことばを使いたいと思う。
明るさを持ちたいと思う。
相手のアイデンティティを尊重したいと思う。
相手の歴史を気にしながら生きたいと思う。
しなやかでいたいと思う。

傷ついてきたから、傷つけていいことにはならない。
興味があるから。研究だから。自分は差別してないから。同和地区と言われたから。だから地名を、ネットに上げる正当な理由にはならないと思う。

いや、私も傷つけてきた。たくさんのひと。
母を始め、友人も傷つけた。関係を一方的に切ったひともいる。
逃げるように滋賀にきた。
自分勝手だ。

そんなことをいう資格はないのかも知れない。でも権利はある。
社会に対して責任がある。
彼に対して、私の息子の、未来に対して責任がある。

『かか、ゆうきもったらいいで』
と息子が言ってくれる。
勇気を持って、私はいいたい。

精神病、神経症、知的障害、発達障害に対するまなざしも考えたい。
たくさんの偏見をみた。
わからないから、
わかってないから、
迷惑かけてるから、
社会のお荷物だから…

でも勇気をもって、断固として、私は許さない。

私は当事者だ。
不安障害をもち、適応障害をもっている。
鬱病になったことがある。
知的障害、発達障害と認められた子どもたちと付き合ってきた。
特別支援学級、特殊学級の担任として付き合ってきた。

そのひとつのことば。

彼らはゆるされてるなんて思ったことはない。
彼らは甘えようなんて思っていない。
ただ、わからないなりに生きている。

認知が曖昧になっていく。
ひとは曖昧を嫌う。
だから嫌われる。

曖昧を嫌ってるのは誰?
嫌な気持ちをそれらしく理由をつけて、向き合ってないのは誰?

少し前に落下の王国という映画をみた。
漫画、アンチマンというものもみた。
わたしひとりの部屋、という漫画もみた。
スラムドッグミリオネアも。
貧困と、教育。こうあるべき、という社会。それから外れると、人間扱いされない空気。

人間とはなにか?

一方からみると加害者で、一方からみると被害者で、傍観者で、差別者だ。

当たり前とはなにか?

差別とはなにか?

私はまだ、わからない。