親も他人も関係ない

うるせえ、ばーか、時代は変わっていってるんだよ、お前らに付き合って殺されてたまるかボケ!

そういって、僕は堂々と生きる、そう歯を食いしばって生きる。

古き悪しき文化や風習や人間に、僕は自分を殺されたくない。

・・・・
・・・・

永代供養という言葉があります。

僕は考えます。
この10年間で、日本で何人の人間が亡くなったのだろうか。
インターネットで【1年間 死者数】と検索すると、150万人前後の人が日本の中で死んでいるそうです。
この150万人が一年間で死に、その名簿、そして遺骨は全部(すべて)どこにあるのだろうか。

150万人が火葬され、お寺や墓地に眠っているのなら、単純に掛け算で150万に10を掛ける式にさせてもらうと、10年間で1500万人の骨が埋葬されどこかに保管されている事になります。

これをどう捉えて考えるかは人それぞれですが。

僕が今座っているここ、ここでちょうど絶命した人がいても可笑しくないと思うのです。
僕の家が元墓地とか戦場だったとかではなく、普通に、この地球と人類の歴史、このたかだか2000年、世代でいえば(安易な計算ですが)三世代が生まれて死ぬと考えれば100年。
60代遡れば僕らは0年。

この間で、僕が今いるここで死んだ人間、亡くなった生命体がいないはずがない。そんな訳が無いとは言わないけれど、見識を広くすれば当たり前の事だと思います。

所詮は、そんなものなのだと僕は思います。

地球の歴史とか、何か壮大なテーマになると、病気の類を疑われると思いますが、何が言いたいかと言うと

「気にするな」


という事です。

僕は親が不安定な人間であった為、僕自身、感情が極度に不安定な部分(面)があります。
そこは不安障害といい、愛着障害と僕は今の言葉で説明します。

・・

気にするな

心配するな

死ぬような事じゃない

死ぬほどの事じゃない

僕も、このNOTEで書いてきた。

死ぬほどの事かと。死ぬような事かと。
死ななければならないのかと。

どうしても死ななければならない理由を突き詰めて考えられる人間なら、僕は、死ぬ必要性は無いのです。

でも僕は死にたがります。

・・

ひとつ前の日記とこの日記の間で、僕は近所のコンビニに出かけています。

その店のオーナーさんが僕と歳が近いのですが、僕はこう思う事がありました。

この人は僕の事を「変な奴」「危ない、やばい奴」と悪いイメージで、僕を馬鹿にしているのではないかと。
僕の悪口を、どこかでしているのではないかと。

その理由は、僕には地元や学校区などでいう地元や幼馴染や家の周りに人間関係がない事。
僕が18歳まで周りと合わず浮いた存在だった事。
それから大阪、東京と経由し、今いるこの地に来てから僕はまだ死にかけて病んでいた事。

事情はある。訳はある。
その時はその時で必死だった。
みんなと同じように言わせてもらう。
僕も生きるか死ぬかしかなかった中だった。

一年半前にそのコンビニが出来た頃に、偶然、そのタイミングで健忘を起こしてしまった。

僕が自殺をした後、その店ではない別店舗でそのオーナーさんと出逢い、会話をしている事。

そんな少しの事があって、僕は
「この人、もしかしたら、僕の事を悪く思ってるかも」
「僕の事を馬鹿にして、また笑われているのかも」
と瞬間的に考える前提が僕の中にあるのです。

そこで考えました。

僕の、その
「笑われている」
は、どこから来ているのかと。

確かに、人間だから過去にそう言う経験や、何かしら誰だって笑われる事や失敗して笑ってしまうような事は散々ある。絶対にある。
けれど、僕がここまでストレスや不安や負荷、傷のようなトラウマのような感情に苛まれる、襲われて身構える理由は何だろうかと考えた。

僕はいじめられっ子といじめっ子の両方を経験している。
それではない。ここではない。

僕が笑われている、馬鹿にされている、というこの悪い言葉、ネガティブ、マイナスな考え方や思考の種は、母親だ。

・・

僕は、物心ついた頃から何度も言うが、人の言葉の裏を読め、と散々言われてきた。

「今、あんたは馬鹿にされてるのよ」
「今の言葉は褒めたんじゃなくて、馬鹿にされて笑われてるのよ」
と、親に言われ続けている記憶の結果なのだ。

確かに僕は忘れ物も多く、不真面目で勉強も宿題もしなかった。
変った子供だったかもしれない。
誰かの言葉を借りれば、手のかかるクソガキだったのだと思う。
今で言えば発達障害だったのかもしれない。

思い当たるところがあったとしてもそれはそれは問題ではない。
そんな事を言っても仕方が無い。

例え「何か」だったとしても、それが免罪符にはならない。

だから考えるのは、なぜ、今の僕が今こうしているのかだ。

ここが、「今を生きる」と言う事に繋がってくる。

問題なのは、僕がどうだったか。僕が何かをしたのか。

僕が何をして、そのそれぞれのケース(場面)で、何が起き何があったのか。

それを事細かく追及や再現は過去の事も群像している。

だから真実なんてのはそれぞれの言い分ではあるけれど。
今を生きると言うのは、そこから僕が考え、学び、変わる事だ。

修正力。
訂正力。

上手くいかなかったことがあるなら、その経験から、上手くいくように変えるしかない。

正しかったり間違ったり、当然失敗したり、笑われてしまう事もあったと思うけれど、誰しも人は皆ある、絶対にある。
けれど、そこで僕はトラウマを植え付けられていしまっているのだ。

・・

あまり深く考え過ぎて言語化しようとすると、病人に思われると思うから、これ以上は書かない。

ハンターハンターが好きな人は、キメラアント編でキルアが兄貴から針を脳に刺されていたシーンを思い出してください。
あの感じです。

トラウマ。
認知の歪みです。

・・

話は脱線しましたが。

僕がそのコンビニのオーナーにどう思われていようと、
どうでもいいのです。

それによって僕の生活や、僕の命や家族や家やライフラインが立たれる脅かされる殺されてしまうような事は無いのです。

僕のこの恐怖心や、瞬間的な臨戦態勢に入る原因。
ストレスには、このカラクリがあるのです。

僕は解毒させます。

親に殺されかけた命。

親に毒されて、犯された僕の人生。

僕も人間。

人生は現実です。

逆算すれば僕が死ぬまでに、僕は解毒できるのか。

寛解が間に合えばいいなと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?